第21話 ~羨~


「ごめんなさいね、急にお願いしてしまって」


 心から申し訳なさそうに言うローズ妃に、アーシャは答える。

「いえ、妃殿下の御身体も診させて頂きたかったので。その後、御体調はいかがですか?」

「ありがとう。悪露も出なくなったし、とても調子が良いの。でも、今は皇女のことが気がかりで」


 乳母に抱かれたカトリーヌ皇女は、丁度授乳の後で、げっぷをさせる為縦抱きにされている。

 カチャリと部屋のドアが開き、ジョシュア皇子が顔を出すのと同時に、皇女は盛大にミルクを吐き出した。


「カトリーヌ!」

 皇子は近付くと、乳母の腕からミルクまみれの皇女を取り上げ、背中をさすり始めた。

 高級なシャツに白い染みが付くも、全く気にしていない様子だ。


 彼の肩に慌ててタオルを当てながら、ローズ妃が話し出す。

「赤ちゃんはげっぷをさせないと吐きやすいものだと言うけど……上手くげっぷが出ないの。いつも噴水みたいに凄い勢いで吐いて。体重もあまり増えないし、もうどうしたら良いのか」

 ローズ妃の瞳が潤み始めた。

「体重の記録はありますか?」

「はい、こちらに」

 乳母から受け取ったノートを開き、アーシャは考える。その詳細な記録から、確かに体重の伸びはあまり良くないものの、便や尿はしっかり出ている様だ。

「夜泣きはされないのですか?」

「ひと月を過ぎた辺りからは、朝までぐっすり眠ってしまって」

「……皇女様はとても賢い方なのですね。既に昼夜を認識し、区別されています。そしてお母様の愛情を沢山受けられ、心身共に安心されていらっしゃる御様子ですね」

 微笑むアーシャに、ローズ妃はほろりと涙を溢す。

「私、何も分からなくて……カトリーヌに何かあったらどうしようと」


「大丈夫ですよ。まず、お身体を診てみましょうね。……殿下、皇女様を縦に抱いたまま、私の方へお腹を向けて下さい」

 ジョシュア皇子は言われた通りに、小さな皇女の腹をアーシャへ向ける様に抱き直した。

「失礼致します」

 ぽっこりと張った腹を触診した後、全身に手をかざし魔力で診るとアーシャは言った。

胃軸捻転いじくねんてんです」

 聞きなれない病名に皆は首を傾げる。


「胃が正しい位置に固定されず捻れてしまっている為、ミルクが下に落ちづらく吐いてしまうのです。げっぷは出ないのにおならは多くありませんか?」

「ええ……ええ、そうなの」

「医術で治せるか?」

 ジョシュア皇子が心配そうに尋ねる。

「治すことも可能ですが、皇女様の月齢では魔力はお身体の負担になります。重病ではございませんので、自然に治るのを見守った方が良いでしょう」

「自然に治るのか?」

「はい。もう少し経って離乳食を始められると、固形物の重みで胃が徐々に正しい位置へ戻ります」

「良かった……」

 夫婦は目を合わせ、ほっとした表情を浮かべる。



 ……これも演技なのだろうか。


 先日、パーティーでランドルフと話していたのとは別人の様な皇子にアーシャは内心躊躇う。

 だが、娘を見つめる皇子の眼差しは優しく、慈愛に満ちている様に見えた。



「ミルクを吐いてしまうのはどうしたらいいの?」

「意識して授乳回数を増やしてみて下さい。夜中も起こして、少量ずつこまめな授乳を。また、授乳後うつ伏せにさせるとミルクが胃に落ちやすくなるので試してみて下さい。但し窒息の危険がありますので、必ず御傍で見守って頂く様に」

 これは、勉強の為にマリウスと出た外来で、同じ胃軸捻転の乳児を診察した時に、彼から教わった方法である。

 アーシャは心でマリウスへ礼を述べた。


「私……起こすのは可哀想だと寝かせたままにしてしまって。それがいけなかったのね」

 眉毛を下げ悲しそうな顔をするローズ妃。

「いいえ。胃軸捻転は寝かせると不機嫌になるお子様が多いのですが、皇女様はたまたまそうではなかったのでしょう」

「上手く出来るかしら……体重が増えてくれると良いのだけど」

 不安気なローズの顔を見て、ジョシュア皇子が言う。

「アーシャ・ミラー医師、暫くこちらへ滞在してくれないか?一緒に授乳を見守ってもらいたい」

「三日後に首都のアルマンド侯爵邸で治療のお約束をしておりますので、それまででしたら可能でございます」

「ああ、構わない。すまないがよろしく頼む」

 そう言って、優しく笑いながらローズ妃の肩を抱く彼は、やはり演技には見えなかった。





 案内された豪奢な客間で荷物を下ろすと、アーシャは早速マリウスへ、当分帰れない旨を手紙にしたためた。


 今朝、子供らに囲まれていた賑やかで温かい光景が遠くに感じる。

 距離を置くことで、気持ちも落ち着くと思っていた。でも実際は、寂しさや……愛しさが余計に募ってしまう。

 夕べ月の下で、背中に感じた温もり。

 あのままマリウスに溶けて、消えてしまいたいと思った。……いっそ彼の一部になりたいと。

 アーシャは込み上げる熱いものを、ぐっと飲み込む。


 離れて早々、こんな風に情けなくなってしまうのは、此処で思わぬ光景を目にしたからだ。

 以前来た時は、どこか冷たく寒々しく感じたこの屋敷には、確かに何か温かいものが灯っている。

 親子三人、寄り添うあの光景。

 ……自分には絶対手に入らない、手に入れてはいけない幸福が、目の前にあった。


 ……愚かね。


 姿見に映った憐れな自分の顔に嫌悪感を感じ、傍らのコートを掴むと、乱暴に引っ掻けてそれを覆った。

 そしてエプロンを締めると、何も見ない様に真っ直ぐ顔を上げ、部屋を後にした。





 授乳後、暫くうつ伏せで背中をトントンと叩いてみると、やはりげっぷは出ないものの吐くことはなかった。

 ベビーベットへ移すと、皇女はすやすやと小さな寝息を立て始める。


「良かった……このまま起きるまで吐かないでいてくれたらいいのだけど。少しでも栄養になって欲しいわ」

 上下する皇女の胸に手を当てながらローズ妃が言う。

「こまめに授乳をすれば大丈夫ですよ。今の内に、妃殿下の診察をさせて頂いてもよろしいですか?」


 ローズ妃の下腹部に手をかざすと、アーシャはうんうんと頷いた。

「子宮がきちんと元の大きさに戻っております。まだ少し貧血気味ですが、以前よりも大分改善されていますね。皇女様のことで心労もおありでしょうが、引き続き充分な栄養と休息をお取り下さい」

「ありがとう。……あの」

 やや言いにくそうに、アーシャの目を見るローズ妃。

「次の子はいつ頃から……」

 顔を真っ赤にして俯く彼女に、アーシャは少し声を厳しくして答える。

「月のものが始まれば、妊娠自体は可能です。母乳をあげていらっしゃらないので、早く再開されると思いますが……ただ皇女様の御世話もありますし、お身体の負担にもなりますので、出来れば一年くらいはお控えになった方がよろしいかと」


「一年……」

 今度は青くなる彼女に、アーシャは問う。

「次の御子様をお望みなのですか?」

「……ええ。殿下が側室をお迎えになる前に、出来れば皇子を産みたいの」

「そのようなお話があるのですか?」

 プライベートなことに立ち入ってはいけないと理解はしているが、妃の身体に関わることであれば、聞かずにはいられない。

「沢山お話はあるみたい……今のところ、全てお断りされている様だけど」

 ローズ妃の顔が歪む。

「いくらお優しい殿下でも、新しい方が来れば私のことなど忘れてしまわれるかもしれません。せめて皇子がいれば……世継ぎの母としては気に留めて頂けるかと」


 哀しく微笑むその顔は、ため息が出る程に美しい。

 この女性ひとは………ジョシュア皇子を心から愛しているのね。


「私も貴女くらい美人だったら、もう少し自分に自信が持てたかしら。身分以外には何の取り柄もないのだもの」

「……私には妃殿下の方が羨ましいです」

「え?」


 自分が望めぬものを沢山持ったローズ妃を、アーシャは羨望の眼差しで見つめていた。





 政務を終えたジョシュア皇子が、真っ直ぐ向かうのは皇女の部屋。

 ベビーベッドの中で寝息を立てる娘の枕元を触り、ミルクで濡れていないことを確認すると安堵する。

 じっと見ていると、突然ふにゃりと笑い出す。隣の小さなベッドに寝ている妃とそっくりのえくぼに、思わず顔が綻び、つんと突いてみる。

 ……良い夢でも見ているのだろうか。

 起こさない様にそっと布団を掛け直した。



『極上の女がおります。お気に召しましたら、妃殿下の主治医としてだけでなく、是非側室に』



 ランドルフに薦められパーティーに招待したあの女医。

 確かに聡明で医術の腕も良く、女性としての魅力も申し分ない。間違いなく好みのタイプである筈なのに、食指が動かないのは何故だろう。

 彼女だけではなく、他の女を側室に迎える気も起きない。例え政治的後ろ楯を得られそうな婚姻であってもだ。


 ……この女に気持ちがある訳ではない。それは明白だ。

 政略結婚で結ばれた、妃の寝顔を見ながら考える。

 では何故……大臣への遠慮か、それとも……


 皇子の脳裏には、身分の低さ故に他の妃達から虐げられた母の姿が浮かんでいた。






 三日後、皇子の屋敷を出るアーシャ。

 授乳のコツを掴み自信がついたローズ妃と乳母は、二ヶ月後の診察を約束し、笑顔で送り出してくれた。


 アルマンド侯爵邸へ向かう馬車に乗った途端、座席に凭れ目を瞑る。

 夜中の授乳も見ていたから……流石に疲れたわ。次の診察に備えて、少しでも回復しておかないと。



 泥の様に眠る内に、馬車はいつの間にか屋敷へ到着していた。

 目をこすり、身なりを整えると、気を引き締め颯爽と降り立つ。

 そんな彼女を、物陰から一人の男が鳶色の目を光らせ眺めていた。


 間違いない──あれはアーシャだ!


 兵と共に屋敷の門を通される後ろ姿を見ながら、男は声を潜めて笑った。

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