第20話 ~溶~


 夜中の回診を終え、自室へ戻ろうと廊下を歩くマリウス。不意に玄関から、カチャリと遠慮がちな音が聞こえ、慌てて飛び出す。


「……アーシャ!」

「ごめんなさい、こんな遅くに帰ってきてしまって」

「馬車の音が聞こえなかったが」

「子供達を起こしてしまうと思って……街から歩いて来たの」

「こんな遅くに危ないじゃないか!」

「ミュゼットの兵が付いてきてくれたから大丈夫です。寒い思いをさせてしまって申し訳なかったけど……」

 そう言うアーシャの鼻と頬も、寒さから真っ赤になっている。

「とりあえず暖まろう。話はそれからだ」


 マリウスはアーシャの冷たい手を握ると、自室へ招き入れる。

 夜風で冷えたコートを受け取ると、震える肩に温かい毛布を掛けた。更に、灰で温めた石をタオルで包んだものをアーシャへ渡す。

「これは……先生がお休みになる時の物ではありませんか?」

「いいから、君が使いなさい」

「……ありがとうございます」


 マリウスは一旦部屋を出ると、トレーを手に再び現れた。ポットからカップに手早くお茶を注ぐと、アーシャへ差し出す。

「まあ、いい香り。カモミールティーですね」

「……前に君も淹れてくれたね」

 あの時、彼女からもらった温もりに、どれだけ救われたことか。

「ありがとうございます。頂きます」

 両手で包む様にカップを持ち、唇で温度を確かめる彼女は、いつもより幼く見える。

 愛しさが押し寄せる胸を悟られない様に、マリウスは下を向き話し出した。


「……今日は帰って来ないかと思った。何処かの宿へ泊まって来るものかと」

「申し訳ありません。本当は夕方迄に戻りたかったのですが、治療が長引いてしまって……泊まると遅くなるので、ギリギリまで馬車を走らせてもらいました。明日の朝はルカの最後の施術ですので、どうしても帰って来たかったのです」

「一日くらい施術が延びても問題ないよ。それよりも自分の身体を大事にしなくては。……夕飯は食べたのか?」

「いえ、馬車の中で眠ってしまったので」

「少し痩せたんじゃないか?」

「……そうでしょうか」


 魔力を使えば、運動をした時と同様に体力を消耗する。普通に休息を取れば充分に回復するが、アーシャの様に不規則な生活ではそれもままならないであろう。更に彼女は肉体だけでなく、神経までもすり減らす程の高度な治療を行っているのだから余計だ。


 マリウスはトレーから小さな包みを取ると、アーシャの手に乗せる。

「今日子供達が作ったんだ」

 開けると、中には顔らしき形のクッキーが数枚入っている。

「アーシャ先生の顔らしい。ミュゼットも一緒に作ったんだが……どれか当ててみて」

「ええと……あっ、これでしょうか」

 どう見ても豚にしか見えない一枚を指でつまむ。

「正解!よく分かったね。それでも彼女にとっては最高傑作らしいよ。他のはもっと酷かったんだ」

 自信たっぷりに鼻を膨らませるミュゼットが容易に想像出来、アーシャはぷっと吹き出す。

「何だかどれも可愛くて、食べてしまうのが勿体ないわ」

「悪くなってしまったらもっと勿体ないよ」

「そうですね。では、頂きます」

 一口かじったそれは、とっくに冷めている筈なのに温かい。優しい甘さが身体中に広がった。

「美味しい……とても美味しい」

 ゆっくり味わいながら全てを胃に収める。

「良かった。腹ぺこのアーシャ先生がぱくぱく食べたって伝えたら、みんなきっと喜ぶな」

 子供達の顔を思い浮かべ、二人は微笑み合った。


「……先生のお部屋は、何故だか心が落ち着きます」

 以前マリウスの看病をして以来だろうか。アーシャの部屋よりも狭いそこは、殺風景で生活感がほとんどない。だが、まるで故郷に帰って来た様な、そんな不思議な安らぎがあった。

「そうか?仮眠と着替えにしか使っていないから、何もないんだけどな」

 アーシャはくるりと部屋を見回すと、マリウスの顔の前で視線をピタリと止めた。

「先生、あまりお会いしない内に、いつの間にかお髭が伸びましたね。熊先生という程ではありませんが」

「ああ……」

 顔の毛を触りながら、マリウスは尋ねる。

「ない方が好きか?」

「いえ、どちらでも。先生は先生ですから」

「そうか……」

 今度はマリウスがアーシャへ視線を向ける。

「君もいつの間にか髪の毛が伸びたな。……此処へ来てからもう四ヶ月以上経つのだから当然か」

「そうですね……まだ結べる程ではありませんが」

「ますます美しくなってしまうな」

「……いえ」

 気のせいだろうか。アーシャはマリウスの声に込められた、切ない響きを感じていた。



「ご馳走さまでした」

 アーシャは手を合わせると、トレーを持ち立ち上がろうとする。

「片付けは俺がやるよ。早く休んだ方がいい」

「ありがとうございます。では……おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 歩き出し、ドアノブに手を掛けるも、アーシャは全く動かない。

「……アーシャ?」

「先生、月を……」

「ん?」

「月を一緒に見ませんか?」

 くるりと振り返ったその顔は、芳香を放つ大輪の花の様に美しかった。




 月明かりが差すテラスに、二人は足を踏み出した。

 暖まった身体を容赦なく刺す、ピンと冷たい空気が心地好い。空には丸い大きな月が、今にも落ちて来そうな存在感を醸し出している。


「さっき外を歩いていて、綺麗だなと思ったんです。先生にも見て頂きたくて」

「……ああ、綺麗だな。この時期の空は澄んでいて、特に綺麗に見えるんだ」

「私……月を綺麗だと思ったの、今日が初めてなんです。おかしいですよね」

 すうっと息を吸い込むと、アーシャは話を続ける。

「月だけじゃないんです。……私、花や風も。此処へ来てから、初めて綺麗だと思ったんです」


 罵声、暴力、妬み、欲望、そして自分自身──

 醜く汚い物ばかりのこの世から目を背け、心の鏡を閉ざしていた。

 けれど、此処には綺麗なものが溢れていて……沢山映してしまった。沢山知り過ぎてしまった。

 中でも一番綺麗なのは……


 アーシャは月明かりに輝く翠色の瞳から、すっと目を背けた。



 テラスの手すりに掴まる華奢な背中。

 それは巨大な月明かりに吸い込まれ、今にも消えてしまいそうに見える。

 恐怖に駆られ、マリウスは咄嗟に後ろから抱き締めた。

「……先生?」

 もっと温もりを感じたいと、茶色の髪に頬を寄せる。



 彼は何も言わない。ただ、自分を包む腕が微かに震えている。

 アーシャは黙って、それに優しく手を添えた。



 ──テラスには長い間、まるで一つに溶けた様な二人の影が浮かび上がっていた。






 翌日、久しぶりに朝食に顔を見せたアーシャに、子供達が駆け寄ってくる。あのトーマですら笑顔を隠すことなく、アーシャのコップに牛乳を注いだりと、落ち着きなく動き回っている。


 中でも一番興奮してアーシャの傍を離れないのが、他でもないミュゼットだ。まるで飼い主を待っていた子犬の様で、可笑しくなってしまう。

「アーシャ!私のクッキーどうだった?」

「とても可愛かったわ」

「でしょでしょ?今度は一緒に作りましょうね」

 腕にすり寄る彼女の肩をポンポンと叩いてやれば、何とも嬉しそうだ。最初は戸惑っていた皇女の扱いも、我ながら慣れてきたものだとアーシャは思う。



 マリウスはそんな微笑ましい朝の光景に、心から幸せを感じていた。


 ……夕べ、思わず抱き締めてしまった彼女の背中。

 もしも自分の前から彼女が本当に居なくなってしまったら、自分はこうして笑えるのだろうか。

 ……生きていけるのだろうか。






 無事にルカの治療を終え、ミュゼットと三人で和やかに過ごしていた時、外から馬車の音が聞こえ玄関が何やら騒がしくなった。


 廊下に出て覗いてみると、ジョシュア皇子の紋章を付けた兵と、マリウスが何やら言い争っている。


「……だから!彼女は夜中に帰宅したばかりなんだ。せめて今日くらいはゆっくり休ませたい」

「なりません。殿下の御命令です」

「……断る」

「皇族に逆らう気か!」


「……ねえ、どうしたの?」

 ミュゼットが近付くと、兵は敬礼し答えた。

「ジョシュア皇子殿下の第一子、カトリーヌ皇女殿下の御容体が優れず、アーシャ・ミラー医師に診察を依頼されています。速やかに屋敷にお越し下さいますように」

「……分かりました」

 ミュゼットの後ろから、アーシャがすっと出る。

「支度を致しますので、少々お待ち下さい」

「アーシャ!」

 止めようとするマリウスに首を振り微笑むと、アーシャは自室へと向かって行った。




 アーシャと兵を乗せ、遠ざかるジョシュア皇子の馬車。

 見えなくなると、マリウスは壁をドンと力任せに叩いた。

「くそ……!何も出来ないなんて」

 こんなに怒りを露にする彼を初めて見たミュゼットは、驚きながらも冷静に言った。

「何も出来なくないわよ。前にも言ったでしょ?アーシャを守る最善の策は、貴方とアーシャが結婚してしまうことだって」


 ヘイル国では、結婚前の性交渉に関しては自由を認めているが、結婚後の女性に手を出すことは、いかなる者でも死に値する重罪となる。

 また、妻が夫の許可、または同伴なしに、実家以外の場所へ24時間以上滞在することは禁止と定められている。

 妻を夫の所有物とみなす封建的なこの法律が、アーシャを守る策となるのだと、前にもミュゼットは勧めたのだが……


「……それは出来ない」

「どうしてよ」

「結婚はそんなに簡単に出来るものじゃない。……第一、彼女がそれを望まないよ」


 マリウスは哀しげに笑った。

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