第19話 ~転~
パーティーから数日後、ジョシュア皇子からアーシャ宛に、大量の金品と一通の手紙が届いた。
それは、ローズ妃の姉をはじめ、皇子と懇意にしている貴族の夫人ら数人の治療依頼だった。
そう、先日の招待と同様、依頼という名の命令である。
やはりこうなったか……険しい顔をするマリウスとは反対に、アーシャは落ち着いていた。
「私が夫人方の治療をする間は、こちらの病院へ他の医師を派遣して頂けるのですよね。でしたら問題ないのではありませんか?」
「……そういうことではない。君を道具の様に使われたくないんだ。それに、君の代わりはどんな医師にも務まらないよ」
「そんなことは……」
「医術だけじゃない。君はもう……此処にとって、かけがえのない存在なんだ」
金の髭が少し伸びた顔で、自分を切なげに見つめる。
何故そんな顔で……アーシャは堪らず目を逸らした。
「ありがとうございます。ですが医術の勉強にもなりますし、私が治療することでこの様な金品を頂けるのであれば、こちらのお役にも立てるでしょう」
マリウスは突如、アーシャの手首をぐっと掴む。
「……そんなこと、望んでいない!君は……君は何も分かっていないんだ」
香り立つ様な魅力を纏う彼女。先日のパーティーでは、まるで蝶を誘う花の如く、男の視線を集めていた。
風にも耐え、凛と咲いてはいるが、その内面は少女の様に清らかで繊細で……
彼女の上辺しか見ない男達に、簡単に手折られてしまうかもしれない。
治療先でもしも、誰かが、彼女を自分のものにと望んだら……
「……先生?」
怒っている様な、
マリウスはすっと手を離すと、低い声で言った。
「……どうしても抗えないなら、君にとって最善の策を考えよう。ミュゼットにも相談してみるよ」
アーシャは自室で一人になると、先程マリウスに掴まれた手首をそっとなぞる。
本当は此処から……マリウス先生から少し離れることに、ほっとしている。
このまま温もりに浸っていたら、自分はどうなってしまうのか。
まだ彼の熱い手の感触が残る手首に、こつんと額を当て瞳を閉じた。
「目を開けてみて」
アーシャの言葉に、もうすっかり慣れた調子で瞼を上げるルカ。
「どう?」
「うん!もっとよく見える。もやもやが薄くなった」
「そう……良かった」
ルカの治療を始めて約三ヶ月。
ミュゼットよりも腫瘍の位置が難しく、完治までに時間を要すると思われたが、予想以上に本人の回復力が高く、あと二回程の施術で終わりそうだ。
「ルカ……あのね、お話があるの」
「なあに?」
アーシャはルカの小さな手を取った。
「先生ね、来週から病院の外の患者さんを治しにいかなくちゃいけなくて、今までみたいに一緒に居られないかもしれないの。お目々とのお話はちゃんとするし、先生が居ない間は熊先生にお願いするからね」
ルカは少し何かを考えるも、しっかりした口調で答える。
「うん、大丈夫だよ。リハビリもがんばるね」
「……ごめんね。ありがとう」
ほっとするアーシャに、ルカは思わぬ質問を投げ掛ける。
「アーシャ先生、ここはアーシャ先生のお家だよね?」
「え?」
「お出かけしても、絶対に帰ってきてくれるよね?」
真っ直ぐに自分を捕える、海の様な青い瞳。自分ですら届かない深い部分に触れられ、胸がギュッと苦しくなる。
「ええ……帰ってくるわ」
ルカはにこりと笑うと、カーディガンのポケットから、小さく畳まれた一枚の紙を取り出した。
「これ、この間ミュゼットちゃんと一緒に書いたの。アーシャ先生へお手紙」
可愛い手からそれを受け取り、カサリと開けると、そこには鮮やかな色鉛筆で同じ言葉が並んでいた。
『 アーシャ
アーシャ先生 だいすき 』
身体中をじんと熱い物が駆け巡る。それはみるみる瞳に込み上げ、気付けは頬を濡らしていた。
「先生?どうしたの?悲しいの?」
ふるふると大きく首を振り、笑うアーシャ。
「違う……違うの、ルカ。とても嬉しいの」
「嬉しい時も涙が出るの?」
「ええ……ほら、とても温かいでしょ?」
ルカの手を取り、震える自分の胸に当てる。
「ほんとだ……先生、温かいね」
“だいすき”
此処へ来てから、この言葉を何度受け取ってきただろう。自分の様な人間には相応しくないと、その度にずっと苦しかった。
だけど今は、苦しみより喜びが勝っていて……そんな自分に罪悪感を感じまた一層苦しくなる。
やはり、此処から距離を置かなければ、自分はおかしくなってしまう。
「それでは先生、ルカをよろしくお願い致します」
「……ああ」
貴族の令嬢と比べても遜色ない高級な服を身に纏い、アーシャは礼をする。軽く見られない様に、身なりはきっちりと。そんなミュゼットの考えにマリウスも従った。
……本音を言えば、あの魔女みたいなフードで行かせたいんだがな。初めて会った時の様に。
皇室の紋章を掲げたミュゼットの兵と共に、馬車に乗り込む彼女を、マリウスはやるせない気持ちで見送った。
その日から、首都をはじめ馬車で片道数日かかる辺境の地まで。アーシャは様々な屋敷に赴いた。
泊まり込みで治療を行うこともあり、数日帰って来ないことも頻繁だった。
今日もテラスでサンドイッチをかじりながら、ミュゼットの隣の空席に目をやるマリウス。
彼女と最後に昼食をとったのは、いつのことだろう……
「アーシャが居ないと淋しいわね」
「……そうだな」
心此処にあらずといった調子で答えるマリウスに、更にミュゼットは話し掛ける。
「アーシャに、淋しいって言ってみたら?」
「そんなこと、俺に言う権利はないよ」
「権利?」
「ああ、俺は彼女の何でもない」
「ふーん……アーシャね、社交界で噂になっているわよ。類いまれなる美貌の奇跡の女医って。一目見ようと何かと用を作っては、治療先の屋敷に貴族の令息達が押し掛けているみたい」
カップに手を伸ばしたマリウスの手がピタリと止まる。
「アーシャが誰かと一緒になってしまってもいいの?」
「……彼女の内面を愛して、守ってくれる男であれば構わない。じゃあ、診察に戻るよ」
食べかけのサンドイッチを入れた袋を手に、マリウスはテラスを出て行った。
──もう!
鼻息を荒くしながら、ミュゼットはお茶をごくごくと飲み干した。
首都のとある娼館。
翌日は祭日ということもあり、男性客で賑わっている。
「おい!順番はまだか!」
罵声が響く中を、愛想笑いを浮かべながら潜り抜ける一人の男。
「お待たせして申し訳ありません。その代わり今夜は色々とサービスさせて頂きますよ。例えば……」
こそこそと耳打ちすれば、先程まで怒鳴っていた男はニヤニヤと笑みを浮かべる。
「……仕方ない。もう少し待ってやろう」
「旦那様の寛大なお心に感謝致します。さあさあどうぞ御一献」
グラスを渡し酒を注いでやれば、赤い顔でこれから待ち受ける女とのあれこれに想像を膨らませている。
……ふん、ちょろいな。
酒瓶を手に、今度は身なりの良い二人連れの男の元へ行く。
貴族か……がっぽり金が取れそうだぜ。
彼らから聞こえてきた会話に、酒を注ごうと伸ばした手が止まる。
「……とんでもない美人なんだ、その女医は」
「へえ」
「身体もこんなでさ」
男の一人がいやらしい手つきでジェスチャーをする。
「でも常に皇室の兵がくっついてるから手出し出来なくてよ。彼女を抱くつもりで今日は遊ぶぜ。アーシャ、気持ち良くしてやるぜ……ってな」
はははと卑猥な笑い声を立てる二人。
アーシャ……女医……アーシャ………
まさか、こんな近くに居たとは!!
男は
そして手に持っていた酒瓶を上等な物に替えると、再び男達へ近付いて行った。
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