第10話 ~傷~


 パリン!!


「うっ……」

 トーマの前に滑り込んだアーシャが崩れ落ちる。

「先生!」

 鍬を放り、咄嗟に支えるトーマ。

「先生、先生!!」


 割れた鋭い瓶が、トーマ目掛けて再び振り落とされた時……何かがそれを、がしっと阻む。


「熊先生!」


 男の腕を捻り上げながらマリウスが見た光景は──


 目を固く閉じ、耳を塞ぎ縮こまるルカ。

 青ざめた顔でアーシャを膝に抱くトーマ。

 そして……

 茶色い髪に赤黒い血を滲ませ、ぐったりと倒れるアーシャ。


 マリウスの胸に、燃える様な怒りが込み上げた。

 感情のままに男の顔を数発殴り、みぞおちを蹴り上げる。

 男は呻いた後呆気なく伸び、続いてやって来たミュゼットの兵により連行されて行った。


「先生!アーシャ先生が……」

 涙を流すトーマの元へ、マリウスが駆け寄る。

「揺らしたら駄目だ」

 アーシャはうっすら目を開けると、マリウスへ言う。

「自分で……出来ますから……ルカを」

 手を傷口にかざそうとするも、痛みに震え上手く上がらない。

 そしてそのまま、意識を失った。






 ベッドに横たわるアーシャ。

 血のこびりついた髪を撫でながら、マリウスは思う。

 もっとアイツを殴ってやれば良かったと。

 ブラウスにまで染みた血が、その傷の深さを物語っていた。


 長い睫毛が震え、鳶色の瞳がゆっくり開く。

「アーシャ!大丈夫か?気分は?」

「……ルカは?」

「え?」

「あの子……見なかったかしら。あの綺麗なに……あんな醜いものを映したくないもの」


 マリウスは、アーシャの手を両手で包むと優しく言った。

「大丈夫。アーシャ先生と約束したって言って、ずっと目をつむっていたよ」

「そう……良かった」

「君の傷は少し深かったが、綺麗に塞がったよ。脳内出血もないし、軽い脳震盪で済んだのが幸いだ」

「ありがとうございます」

「しかしあんな状態なのに、自分で治療しようとするなんて」

 少し怒った様に言うマリウスに、アーシャは静かに口を開いた。


「いつも……ああして自分で治療していたんです。父に殴られた後」

 マリウスは言葉を失う。

「母が亡くなった後、暴力の捌け口は私達子供に向かいました。私は回復魔力が使えるから、いつも弟達の盾になって」

「アーシャ」

「だから、自分で治療をするのは慣れているんですけど……今日は少し難しくて」

「……そんなことに慣れなくていい!」

 突然語られた彼女の生い立ち。彼女を傷付けたものに対し、凄まじい怒りが沸き、思わず叫んでいた。


「回復魔力が使える様になったのも、母の傷を治したい一心からだと思います。でも……私は無力で、結局母は亡くなってしまいました」

 マリウスはアーシャの細い手を撫でながら言う。

「今日……怖かっただろう。自分の父親と、アイツが重なったんじゃないか?」


 マリウスの言葉に、アーシャははっとする。

 昔は弟を守るのに必死だった。今日は、ルカを、トーマを守らなければと。

 ……自分の恐怖はいつも置き去りで、悪魔の前に立ってきたのだ。


 急にアーシャの身体が震え出す。見開いた鳶色の瞳からは、涙が溢れ止まらない。

「ずっと……怖かった。ずっと、ずっと。今も怖い」

 マリウスは彼女の身体を少し起こすと、逞しい胸に抱き締める。そして幼い子供にする様に、背中をトントンと叩いた。

「大丈夫……もう君を傷付けるものは何もないよ。もし現れたとしても、俺が必ず守るから」



 薬草の香りがする、温かい胸。

 こんな風に抱き締められるのは、母が生きていた時以来か。

 まるで、自分がこの世で、価値あるものの様に錯覚してしまう。自分には、魔力以外何もないのに……

 アーシャはふと我に返った。


 憐れまれるのは嫌なのに、何故話してしまったのだろう。こうして、この人の優しさにすがりたかったのだろうか。


 ──忘れたの?

 自分は誰かに守ってもらえる様な人間じゃない。

 犯した罪と向き合い、一生苦しみ続けなければいけない。



 アーシャはマリウスの胸を押すと、涙を拭って言った。

「……余計なことをお話してすみませんでした。自分の問題ですので。もう大丈夫です」


 彼女はまだ何か重荷を抱えているのだろうか。

 そんなに哀しい顔をさせる何かを、一緒に背負ってやりたい。

 マリウスはぐっと手を握った。



 ノックの音にドアを開けると、そこにはトーマが立っていた。

「アーシャ先生は?」

「ああ、さっき目を覚ましたよ。傷も問題ない」

 トーマは恐る恐るベッドに近付くと、泣きそうな顔で言った。

「ごめんなさい……俺……男なのに先生を守れなくて」

 アーシャは静かに首を振る。

「そんなことない。あなたは私達の前に立ってくれた。とても心強かったわ。ありがとう」

「先生……」

 アーシャは少年の肩を優しく撫でた。




 アーシャの部屋を出て、廊下を歩く二人。

 トーマは不意に、タタッとマリウスの前へ出ると言った。


「俺、熊先生には負けません。俺とアーシャ先生の方が歳が近いですから。後三年すれば……」

 マリウスは耳を疑う。

「え……今、なんて言った?君とアーシャの方が歳が近い?」

「はい、そうですよ」

「えっと……君は15だったな。で、アーシャは幾つだ?」

「19ですよ。先生、知らなかったんですか?」


 19……!ミュゼットと同じじゃないか。

 自分よりは若いと思っていたが、あの落ち着きぶりと医術の高さからして、勝手に24~5だと思っていた。


「とにかく、子供だと思って油断は禁物ですよ。一生懸命勉強して看護師になったら、アーシャ先生に求婚します」


 ふんと威嚇し去っていくトーマ。

 残されたマリウスは、動揺のあまり、呆然とする。

 8歳……8歳も離れていたのか。


 いや、別に離れているから何だと言うんだ。

 何を考えているんだ俺は……


 金の毛をぐしゃぐしゃと掻き、マリウスは子供達の病室へ入って行った。






 今日は休めと言われたが、目が冴えてしまい、さっきからぼんやりと天井を見つめている。そこに、孤児院の年長の少女、キヤが桶とタオルを持って入って来た。


 黙ったままアーシャへ近付くと、よく絞った温かいタオルで髪の血を落としていく。

「……ありがとう」

 何度かそれを繰り返し綺麗な茶色に戻ると、キヤはアーシャのブラウスを指差して言う。

「それ、脱いで。洗うから。早くしないと落ちなくなっちゃう」

「洗ってくれるの?」

 こくりと頷くキヤにアーシャは微笑み、血の付いたブラウスを脱いでいく。目の前に現れたアーシャの白い肌に、キヤはごくりと息を飲む。

「綺麗……勝てっこないわ」

「え?」

 下を向きながら、ブラウスを受け取るキヤ。そして呟く様に言う。

「私の肌、汚いの。熊先生が薄くしてくれたけど……完全には消えなくて」

 その言葉に何かを察したアーシャ。

「よかったら、私にも見せて」


 華奢なキヤの背中には、コテを押し当てられた様な火傷の痕が幾つもあった。

 ……何故こんなことが出来るのだろう。

 マリウスが処置をする前はもっと酷かった筈だ。痛々しさに目を背けたくなるも、しっかりと傷の状態を確認していく。

「時間が経ってしまったから、これ以上は薄くならないって」

「……やってみるわ。深呼吸して、楽にしていてね」

 アーシャが手をかざすと、赤い光が背中を包む。

「温かくて気持ちいい」

 やがてそっと手を下ろし、キヤへ言った。

「鏡を見てみて」


 服をまくったまま姿見の前へ移動したキヤは、あっと叫んだ。

 元から何もなかった様に、傷痕が綺麗に消えていたからだ。

「すごい……!本当に?嘘みたい!」

「あなたの治癒力が頑張ってくれたわ。私は手助けしただけ。後で熊先生と相談して、塗り薬を出しておくわね」

 キヤは顔中に、はち切れそうな笑顔を浮かべた。

「……ありがとう、先生」


“ありがとう”


 幾度となく言われたその言葉。

 温かくなる胸に、いつも酷い罪悪感を感じる。

 これは贖罪なのに。

 喜びなど感じてはいけないのに。


「先生みたいに綺麗じゃないけど、これで少し自分に自信が持てる気がするわ」

「……あなたは綺麗な女の子よ、キヤ」

 偽りのない、アーシャの真っ直ぐな瞳に、キヤは頬を赤らめる。

「先生、今日はトーマを助けてくれてありがとう。私、此処へ来た時からずっとトーマと一緒だったから……もし彼に何かあったら生きていけないもの」

 そして、チラリとアーシャの表情を窺うと言った。

「先生はトーマのことをどう思っているの?」

「優しくて勇敢な子だわ」

「そうじゃなくて……」

 赤毛をいじりながら、キヤは小さな声で言う。

「アーシャ先生はトーマじゃなくて、熊先生とお似合いだと思うわ。とてもいい雰囲気だもの」

「え?」

「それに……ねえ、先生、良いこと教えてあげる」


 キヤはアーシャの耳元に、“良いこと”を囁いた。

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