第8話 心の鍛錬

 僕は追加されたメープルシロップを男性に届けたときに忘れないように顔を覚えた。

 サービスカウンターは来客への対応やドリンク作成から提供、バッシングやテーブルセッティングでてんやわんや。でもサービスマンは水鳥の如く、お客様からは見えない水面下では必死に脚を動かして、お客様から見える範囲では可憐で優雅な動きをしなければいけない。

 慌ただしい時間はあっという間に過ぎていき、ほとんどのテーブルはお客様の顔が入れ替わった。僕も道に落ちているウンチのことだけを見ているわけにはいかず、つい気が離れていた。一息つけたとき、あの男性を見るとまだパンケーキが1枚、そのまま残っている。時計は間もなく21時になろうとしている。

 来店からそろそろ2時間が経とうとしているのに、まだ食べていないってどういうこと?近くの他のテーブルへ行く用事ついでに男性の様子を伺うと、PCのデスクトップは開けたままでスマートフォンを操作している。パンケーキは追加したメープルシロップまで吸い込んでお皿は乾いていた。でもナイフとフォークは食事中のサイン。お水はまだたくさん残っていた。

 彼はここへなにをしに来たんだろう?

冷たくなったパンケーキは、もはや「ホットケーキ」ではなくなった。

 食事をするために来たことは間違いないけれど、このお店でなくてもよかったのではないか?パンケーキじゃなくてもよかったのではないか?


 残っているパンケーキを食べてしまうと、あの男性がここにいる理由が失せてしまう。場違いでも、歓迎されていなくてもあの男性には今日はここにいる必要があっただけ。

 こんな輩に動揺しているようでは心の鍛錬が足りない証拠。


 美しいもの、心躍るものを見てワクワクとする時間を過ごしましょう

 道に転がるウンチは、後からやってくる人のために片づけましょう

 そして、また歩き出す。

 サービスマンはこうでなくては。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

寡黙なウェイターはかく語りき 橘 遊 @tachibana-y

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ