第44話 本心
「砂漠の月」
奏太が呟くと、文月がハッと言葉を切る。
「読んだの、ですか……?」
「もちろん」
深く頷いた後、奏太は鞄から一冊の本──『砂漠の月』を取り出し文月に見せた。
信じられない、と文月が目を見開く。
「まーーーーじで手に入れるの大変だったよ。市内の書店や図書館は全滅でさ。隣街の大きな書店で、やっと見つかった」
「どうして……わざわざ、そんな……」
「これを読めば、文月の事がわかると思って」
奏太が言わんとしている事を、文月はすぐに察したようだった。
「前に言ったよね。この本の主人公には、自分かと思うくらい共感出来たって」
つまり、『砂漠の月』の主人公と文月は、非常に近い存在。
文月自身その自覚が強くあるからこそ、わかりやすく動揺が表に出ていた。
「もちろん、この本の主人公が文月そのものとは言わない。違う点もたくさんある」
立ち上がる奏太。文月は一歩、逃げるように後ずさる。
「だけど、最後のシーンの遺言に関しては特に、文月は強い憧れを持ったんじゃないかな」
──何よりも主人公の最期の遺言で、完全にやられてしまいました。
文月がそう評した、この物語の真骨頂。
『砂漠の月』というタイトルの語源にもなったフレーズを、奏太は口にした。
「果てしなく続く砂漠をただ這う人生だったが、ふと夜空を見上げると、それはもうとても綺麗な月が出ていた。心を許しあえる友と出会えた事は、無味乾燥な僕の人生において至上の喜びであった」
「────っ」
口元を手で押さえ、声にならない悲鳴を上げる文月を見れば、答えは明白だった。
「文月も、欲しかったんでしょ。文字通り、心を許しあえる友達が……欲しかったんだよね?」
今度は否定されなかった。当然だ。
否定すると、文月は本に対する自分の言葉を否定する事になる
それは読書家として高いプライドを持つ文月には耐えられない所業だろう。
代わりに降りてきた沈黙の間に、思い出す。
カフェで読書をしていた時、奏太に友達と言われた文月は心底嬉しそうにしていた。
逆に帰り道で澪と出くわして、奏太が咄嗟に「知り合い」と誤魔化したときには、とても悲しそうにしてた。
口では友達なんて……と言う癖に、友達に対し誰よりも強い憧れを持っていた事は明白だった。
それを文月に、自覚させなければならない。
「どうなんだ、文月?」
焦り、戸惑い、恐怖、混乱。
様々な感情が混じって揺れる瞳をまっすぐ見て、逃がさないとばかりに奏太は問う。
「わ、たしは……」
まるで助けを求めるかのように、文月は左上に目を向けて。
「フランスの作家、ジャック・プレヴェールは……」
「葵!!」
お馴染みの引用で御託を並べようとする文月、いや、葵を一喝する。
苗字ではなく下の名前で呼んだ事は、自分は葵を友達だという何よりも強い意思表示であった。
「有名人の言葉じゃなくて、葵自身の言葉で聞かせて欲しい」
優しく、奏太は尋ねた。
「葵は、本当は、どうしたいの?」
やや間があって。
「わた……私、は……」
弱い自分を守っていた仮初の理屈が、ポロポロと崩れ落ちて。
ただの一人の女の子になった葵が、言葉を溢す。
「友達が、欲しいです」
たった一つの願望が、空気を震わせる。
ぽたりと、地面に何かが落ちる。
「朝、友達と一緒に学校に行ってみたいです、昼休みに友達と一緒にご飯を食べてみたいです、放課後に友達と一緒にマックとか行ってみたいです、友達とノートを見せ合ってテスト勉強をしてみたいです、友達と一緒に本や漫画やアニメの感想を言い合ってみたいです、友達の家に泊まって夜中までお喋りしてみたいです、友達と一緒に旅行とかしてみたいです、一緒に笑い合えて、助け合えて、学校を卒業しても定期的に連絡を取り合えるような……そんな友達が、欲しいです」
自覚したら、止まらなかった。
ぽたり、ぽたりと、赤縁眼鏡の隙間から透明な雫が滴り落ちる。
「やっと、言ってくれた……」
奏太の胸に安堵が舞い降りる。
「ひとりはもう、嫌です。誰かと一緒にいたいです。でもこんな、地味で根暗で卑屈で家庭も複雑で面倒臭い私なんて、友達が出来てもどうせすぐまた嫌われてしまいます。わかってるんです。どうせまた、同じ事を繰り返すんです」
(同じ事……なるほど……)
嗚咽混じりに吐き出された葵の言葉を聞いて、やっとわかった。
葵が友達という存在に強い拒否感を覚えていた理由。
小学の頃が中学の頃か、葵は昔、心を通わせていた友人に裏切られた事があるんだろう。
その出来事が辛くて、もう二度と経験したくないって思って。
こんなに痛い思いをするのなら最初から、友達なんて作らなければいいと思ったのだろう。
でも同時に、憧れもあったんだ。
自分を裏切らない、ずっとそばにいてくれる。
そんな友達が出来るんじゃなかという、淡い希望を。
葵の心中を察したら、胸が引き裂かれるように痛んだ。
いてもたってもいられなくなって、ひとりでに体が動く。
嗚咽を漏らして啜り泣く葵を、奏太は優しく抱きしめた。
すっぽりと、葵の身体が奏太の腕に収まる。
こんな小さな身体で頑張ってきたのだと思うと、居た堪れなくなった。
文月の肩が驚いたように跳ねるも、抵抗はされなかった。
「一人になるとか、そんな寂しい事、もう言わないでくれ」
腕にぎゅっと力を込めて、切実な思い出言う。
「嫌な事とか、辛い事とかからは、俺が守るから、俺が……」
声に決意を灯して、これ以外ないだろうという言葉を奏太は贈った。
「俺が、葵の月になるから」
その言葉には、魔力があった。
ひとりの女の子の、ずっと凍っていた心を溶かす、魔力が。
冷たい十一月の空気を伝って、葵の鼓膜を震わせた言葉の効果は、すぐに現れた。
「う……ぁ……」
小さな両手がぎゅっと、奏太の服を縋りつくように掴む。
「あ……うぅ……あぁあ……ぁあぁあぁあっ……ひっ、うっ……ああああぁぁああぁ……うっ……ぅあああぁぁあぁああああああぁぁぁぁああっ……!!」
葵は泣いた。
大声で、しゃくりをあげたりして、赤ん坊のように泣きじゃくった。
ずっと冷静沈着だった葵の初めて目にする慟哭。
今まで溜め込んできた数多の感情が、本心が、溢れ出して止まらないようだった。
奏太は何も言わず、その小さな背中を優しく撫でる。
葵の感触を、体温を、匂いを感じた。
奏太の胸に顔を押し付けて、葵は泣き続ける。
そんな葵をずっと、奏太は抱きしめ撫で続けた。
雲ひとつない夜空に浮かぶ月だけが、二人を眺めていた。
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