第10話 月が……
ご勝手に、という言葉に甘えて奏太はちょくちょく図書準備室に赴くようになった。
正確には、悠生に遊びに誘われたりする日以外は大抵、放課後は文月と読書をして過ごしている。
一冊の本を読み終えると、図書室のラインナップの中から文
月にお薦めを教えてもらって、借りて、また読んでの繰り返しが奏太のルーティーンとなった。
十月が終わり十一月に入って、読破した本は十冊ほど。
段々と読書にも慣れてきて、コンスタントに本を読み進められるようになった。
家に帰ってゲームしたり、だらだらとSNSをしていた時よりも、充実した日々を送っているように奏太は感じていた。
「文月はいつも、どんな本を読むの?」
とある平日の放課後、図書準備室。読書をしている最中、奏太はふと文月に尋ねた。
文月はいつも本にブックカバーをかけているため、彼女がどんなタイトルの本を読んでいるのか奏太は知らなかった。
「今は純文学ですね」
「今は、というと普段は違うのか」
「私の中でブームみたいなのがあるんです。重厚なミステリーを読む時があれば、ファンタジーのライトノベルを読む時もありますし。少し毛色を変えて自己啓発系のビジネス本を読む時もあります」
「へええ、オールマイティなんだね」
「乱読派ともいいます」
「今読んでる純文学は、夏目漱石とか芥川龍之介とか?」
「それしか文豪をご存じないのですか。夏目先生は偉大な作家ですよ。『こころ』は名作です。全人類が読むべきです」
「へえ。昔、千円札になってたって事と、『月が綺麗ですね』しか知らないや」
「逆にどうして月のくだりを知っているんですか?」
「『月が綺麗だっぴ☆』ってボカロの曲があってさ。YouTubeのコメント欄に夏目漱石の名言が元だって書かれてて、それで知ったんだ」
「ああ、そういう……」
ちょっぴり期待はずれそうな表情をする文月。
「ちなみに、どういう経緯でそのフレーズが誕生したのか、ご存じですか?」
「うっ……そこまでは知らない」
「夏目先生は愛媛の高校で英語の教師をしていたんです。ある時、ひとりの教え子が「I love you」を「私はあなたを愛しています」とそのまま直訳したのを、夏目先生が「月が綺麗ですね」とでも訳しておきなさいと学生に言った事が、誕生のきっかけらしいです」
「へええ! なるほど、そんな経緯があったんだね。ひとつ賢くなったよ」
「ちなみに、そのフレーズを実際言ったかどうかは定かではない都市伝説みたいなものらしいので、鵜呑みにしないほうがいいですよ」
「まさかの掌返し! すっげーお洒落な訳をするんだなって感激したのに!」
「元ネタを知らない人に言ったら、普通に痛い人になるので気をつけてくださいね」
「使うわけなっきゃろ。確か、月が綺麗ですねの返事もあったよね、なんだっけ」
「あなたのためなら死んでもいいわ」
「そう、それ! 流石! でも話の流れ的にこっちも都市伝説なんだろうなー」
「こっちは本当らしいですよ。ロシアの文豪、ツルゲーネフの「片戀」という小説に使われている台詞を、二葉亭四迷先生がこう訳したらしいです」
「知識の量えげつ過ぎじゃない文月先生?」
「本で読んだだけです」
「流石……!! でも、そんなたくさん本読んで疲れない?」
なんとなしに奏太が尋ねると、文月は目を左上に向けてから口を開く。
「アイルランドの作家、リチャード・スティールは言いました。心にとっての読書は、身体にとっての運動と同じである、と」
「えっと……つまり?」
「本は私にとって読めば疲れるものではなく、むしろ読まないと心の安寧が保てない、必要不可欠なものという事です」
「ほえー、本当に読書が好きなんだな」
「人生のそのものと言っても過言ではありません」
どこか誇らしげに鼻を鳴らす文月に、奏太は思わず口角を持ち上げる。こうしてたまに雑談に応じてくれるくらいには、奏太に対する文月の態度は軟化していた。
最初に書店で出会った時の、明らかな話しかけるなオーラを放っていた彼女と比べると雲泥の差である。
積極的に話しかけ、徐々に文月との距離を縮めていった奏太のコミュ力の賜物でもあるが、そもそも文月葵という少女が人と話す事に対しそこまで消極的ではなかったという側面もあった。
教室では誰とも一言も言葉を交わさずずっと黙っている文月だが、それは単に会話をする相手がいないだけで、大量に本を読み込んでいるのもあり、彼女自身の頭の中にはたくさんの知識や言葉が溢れている。
心を開いたわけではないにしろ、奏太という話し相手が出来てからは人並み程度には会話のキャッチボールをしている印象であった。
「ああ、そういえば」
珍しく、文月の方から話を切り出す。
「昨日、例の漫画が入荷されたので、都合良い時に取りに来て頂けると」
「お、了解! じゃあ今夜取りに行くわ」
「わかりました。今日はシフトに入っているので、声をかけてください」
「おけ! 本当にありがとうね、色々と」
「……仕事ですので」
ふいっと文月が顔を逸らす。褒められ慣れていない文月が不器用に浮かべた照れの感情に、奏太も思わず頬を緩めてしまうのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます