蠕動

多田いづみ

蠕動

 暗やみのなかをひとり、女がっている。


 むき出しの大地はおおよそ平坦だったが、不規則なおうとつがある。盲目なので、暗やみであろうがなかろうが這ってゆくしかない。土はかたく凍りついて、尖った砂つぶがヤスリのように肌を削る。


 女の瞳は、かつてあまりに悲しい出来事があったとき、涙といっしょに流れ落ちてしまった。が、目に映るのは醜く汚らわしいものばかりだったから、見えなくなったのはむしろよかった。


 世界は暗やみに覆われていてどこに行こうが同じように思える。しかし女には、むかうべき先が分かるような気がした。


 もしもそこに腹をすかせた野犬やおそろしいけだものがいたなら、たちまち殺されてしまっただろうが、ときおり冷たい風がうなるように通りすぎていくほかに何の物音もなかった。


 ところで女が何をそんなに悲しんでいたかというと、ふしぎなことに本人にも記憶がない。ただそのことを思い出そうとすると、胸のなかは絶望で満たされ、頭のなかは怒りでいっぱいになる。

 心が折れそうになる時それを思い起こすと、いくらでも身体に力がみなぎった。


 それでも凍った地表から、冷気が身体にしみ込んでくるのは防ぎようがなかった。関節が、油の切れたぜんまい仕掛けのようにぎいぎいと音を立てる。すり切れた肌からにじんだ血が、大地に赤いあしあとを残す。風は身を切るように冷たく、氷の針が混じっているかのようだった。


 手足がかじかんでどうにもならなくなると、女は地面にできた小山にしがみついて休んだ。

 小山といっても、それはひざ丈くらいのちょっとしたふくらみで、そこかしこにある。這うにはじゃまだが、凍った大地のなかでなぜかそこだけ ほのかに暖かく、湿った土の匂いがする。


 その小山のふくらみを両腕で抱え込むようにして休んでいると、ぬくもりとともに生気まで満たされるようだった。しかしそれは寄り添ううちにすぐに失われてしまうので、ひんぱんに他の小山に移らなければならなかった。


 あるとき女が小山で休んでいると、とつぜん人の声をきいた。


 もちろん姿は見えなかったし、気配もなかった。また、風の音でもなかった。

 女は自分でも気づかないうちに泣き叫んでいることがよくあったので今回もそれだと思ったが、きこえてくるのは自分よりもっとずっと低い声だった。


 女は瞳を失ってからは聴覚に頼りきりで、耳は鋭かった。が、その敏感な耳でもどこからきこえてくるのかはっきりとは分からなかった。どうやら地面の下から響いてくるらしいと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからだった。声はひそやかで単調だったが、絶えることなくつづいた。


 古い扉がきしむような、うなりとも嘆きともつかないその声をきいているうちに、女はだんだん腹がたってきた。というのも、いつも泣き叫んでいる自分の声に比べると、それほど悲しくも苦しくもないように感じられたからだった。なぜかそのことが許せなかった。


 その声と競り合うように、女は渾身こんしんの力をこめて叫んだ。それは人の声というよりも、動物が敵を威かくするときに出すような声だった。女は四つ足で這いまわるうちに、半ば獣になり果ててしまったらしい。

 その叫びに恐れをなしたのかどうなのか、声はだんだん遠く小さくなっていってやがて消えた。


 それから小山で休むたびに、いろいろな声をきくようになった。高い声、低い声。若い声、しわがれた声。女はどれも気に入らなかった。

 声がきこえてくると、たわいない子供のような侮蔑の言葉を口にした。

「ばかだ、ばかだ。こいつらはばかだ! 死ね、死ね。ぜんぶ死んでしまえ!」

 すると地面からの声は、どれも小さくなって消えた。声がきこえなくなると、女はすこし気分がよくなった。


 そのうち声がきこえないときでも、しじゅう侮蔑の言葉を叫ぶようになった。それもまた、先に進むための活力を与えてくれるのだった。


 女の思考はどんどん単純なものになっていったが、心の痛みが消えることはなかった。

 思いきり泣き叫んだり、地面からきこえてくる声をののしったりすると、一時的におさまることもある。が、しばらくするとそれはまた顔を出した。心の底に押し込めたと思っても、どこからか出てきて女を苦しめた。

 女は体も傷だらけだったが、それでも心の傷に比べるとまだましだった。


 いつものように小山を抱きながら地面からの声をののしっていると、とつぜん、なにかの生き物の群れに襲われた。

 それには鋭いくちばしと獰猛どうもうなけづめがあった。おそらく猛禽もうきんのたぐいだろう。大きな羽ばたき音がし、金属をこするような不気味な鳴き声をきいた。


 その群れがどれくらいの数だったのか、女には分かりようもない。が、それらは寄ってたかって女にとりつくと、鋭利なくちばしとけづめで女の肌を食い破り、その穴にくちばしを突っこみ、はらわたを引きずり出した。


 女はここに来てからというもの、攻撃するばかりでされたことなどなかったから、驚きのあまり声も出せず、わけも分からないままやみくもに逃げるしかなかった。


 もう追ってこないとわかるまでずいぶん長いこと逃げまわっていた。

 きき耳をたて、あの恐ろしい鳴き声も羽ばたき音もきこえないことが分かると、やっとほっとした。無我夢中でかけずりまわっていたところからふいに我にかえって、身体をあらためてみると、血だらけで腸を引きずりながら逃げているとばかり思っていたのに、奇妙にも身体のどこにも穴はあいていなかった。


 あれはいったい何だったのか、けっきょくよく分からなかったが、それから女は小山に近づくのをやめた。あれに気づかれるのが恐ろしくて、声を出すこともまれになった。


 暖をとることができなくなったので、手足は凍って赤黒く腐りはじめた。それでも女は進むのをやめなかった。やがて手足は腐りきって、ぼとりと落ちた。


 手も足もなくなったので、女はなんとか身体を延ばしたり縮めたりしながら、芋虫のようにのろのろと進んでいった。


 いったいこの先に何があるのか。


 状況は今より悪くなりようがない。かといって、やしだとかなぐさめだとかそんなものは、はなから求めてはいない。ただ良い悪いにかかわらず、想像すらできない途方もない事が起こりそうな予感がするのだった。


 そしてついに、女は身動きが取れなくなった。


 かろうじて動かせていた胴体は、いよいよ自由がきかなくなった。どれだけ怒りで奮い立たせても、もはや身体は固まったままだった。まだ口は動いたので、歯を地面に突き立てて身体を引っ張ろうとしたが無理だった。

 女のめざす場所は、ほんのわずか向こうにあったかもしれない。が、もう一歩も先へは進めなかった。そうして女の体はだんだん硬くなっていった。


 女は薄れゆく意識のなかで一片の夢を見た。


 夢のなかで、女は一匹のちょうだった。

 森のなかのおおきな木にぶらさがったさなぎから、生まれ出たばかりだった。蝶といっても姿かたちは人のままで、その背中にはくしゃくしゃに折りたたまれたはねがあった。それはまだ蛹から抜け出たばかりであることを示していた。失われた手と足、そして目さえも、蛹であったあいだに再生されたらしい。すべてが元どおりかそれ以上だった。女の肌は赤ん坊のように柔らかく、磁器のように白くなめらかで、傷ひとつなかった。


 手足を失って以来ずっと芋虫のように這ってきたので、女は自分が蝶になったからといってべつにふしぎとも思わなかった。むしろそれは当然のような気がした。

 

 季節は初夏だった。空気は澄みきっていた。深呼吸すると、肺は清々しい森の香に満たされた。


 太陽は昇ったばかりだった。まだ夜気の残る明け方の大気は湿り気をおびていて、肌を潤しながら身体にしみ込んできた。


 木の幹に生えたみどりの産毛を思わせるこけには、ちいさなあぶくのような朝露あさつゆがたくさんついている。それは朝日を浴びて宝石のように輝いていた。

 女はその朝露を一滴、吸った。みずみずしい蜜の味がした。


 森の木々は、萌え出たばかりの若葉を青々とたたえている。

 日の光があまりにまぶしかったので女は葉陰に隠れて休んだ。そのあいだにも、新緑を透かして伝わってくる柔らかな日のぬくもりが、よじれた翅をだんだんと広げていった。


 女はいますぐにも飛び出したかったが、翅はまだまだ弱々しかった。しかし、少し前まで丸めた紙くずのようだった翅は、もう女の背丈より高くなっていた。


 翅にはラベンダーの地色にあざやかな黄色い星型の紋が入っている。華やかでいくらか毒々しくもあるその姿かたちに、女は満足した。


 おそるおそる翅を動かしてみると、ずっしりと空気の重みが伝わってきた。まるでおおきな団扇うちわをあおいでいるようだった。もうすこし早く動かしてみると、ふわりと体が浮いた。宙を舞う鱗粉りんぷんが、日の光を浴びて金色にきらめいた。


 “翔ぶ”のは“泳ぐ”のと似ているかもしれない――なんとなくそう思った。女は泳ぎが得意だった。空に飛び込んだら思いきり翅をばたつかせよう、そうすれば沈まずにいられるだろう。


 女はめずらしく空腹を感じた。朝露もわるくはないが、花の蜜となればもっとごちそうだ。森を抜けて野原へ出れば、そこには色とりどりの野の花がたっぷり蜜を抱えながら咲きみだれているにちがいない。


 くしゃくしゃの紙くずのようだった翅は、いつのまにか太鼓の革のようにぴんと張っている。もう女の体は、いつでも飛べる用意ができていた。女の心も、いよいよ準備がととのった。


 いざ飛ぼうとすると、木の幹のあたりは枝葉が複雑にからみあって翅が引っかかりそうに思えた。女はもっと開けた場所を探して慎重に枝を伝っていった。


 ところがようやく枝の先まできたところで、とつぜん、日が陰った。

 暖かなひだまりは姿を消し、冷たい風が吹いて木々がざわめいた。鉛色の雲が空にうずを巻きはじめた。陽光に和毛にこげを照りかがやかせていた青葉は急速に色を失い、枯れていった。


 強風にあおられて、こずえむちのようにしなりながら、にごった口笛のような音を立てている。

 すべての葉はとうに落ち切っていた。それでも女は飛ばされまいと、むき出しになった黒い骨のような枝の先端に必死にしがみついていたが、そのうちに力尽きて風に飲み込まれた。


 森の下層には、巨大な穴が広がっていた。

 穴の底はしれなかった。もしかしたら底などないのかもしれなかった。女は必死に翅をばたつかせたが、この激しい嵐のなかでは無力だった。風はうずを巻くように穴の奥へと吹き下ろしている。

 女は荒波に揉まれる小舟のように、なすすべなく、底なしの闇のなかをすべり落ちていった。


 女はだんだん小さくなっていく空にむかって手を伸ばしながら、最後の助けを呼ぼうとした。が、自分を救ってくれそうな誰の名前も思い浮かばなかった。

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