第3話
青年は、名を誠一郎と言った。自分の性を名乗らなかった誠一郎につられて、弥生も自分の名前だけを口にする。この時代、自らの生まれを恥じて性を名乗らない者も少なくない。弥生もそうだった為、あまり深くは考えなかった。
「鈴を……探してました。この簪に付いていた鈴です」
そう言って、弥生が自らの後ろ髪に手を当てる。残された一つの鈴がちりんと鳴いた。
「可愛らしい簪ですね。あなたによく似合う」
えっ、と弥生の頬が紅色に染まる。しかし、辺りが暗かったお陰で、誠一郎には気付かれなかったようだ。それよりも何かを考えているように見えた誠一郎に、弥生は前々から疑問にしていた事を口にした。
「いつもそんな風に何かを考えていらっしゃいましたよね。一体、何を考えておいでなのです?」
言ってしまった後で弥生は、自分の発言が軽率だったとひどく後悔した。これでは、自分がいつも誠一郎を見ていた事を証言したようなものだ。
しかし、弥生の心配に反して、誠一郎は照れくさそうな笑みを零した。
「参ったな、見られてましたか」
弥生は、何とか弁解をしようとするが、上手い言葉が見つからない。すると、それもそうか、と誠一郎が続けた。
「弥生さんもよく、あの遊歩道を通っていましたものね」
「えっ……。私の事、知っていらしたんですか」
驚いて立ち止まった弥生をそれより数歩先で立ち止まった誠一郎が振り返って微笑んだ。
「鈴の音が聞こえてましたから」
鈴と言っても、弥生の簪に付いている鈴は、小さな物だ。下駄の音の方がよく聞こえるのではないかと疑問に思ったが、先程の事もあり、あまり失礼な事は聞けない。女が主張する事は、あまり美徳とは思われないからだ。
「恥ずかしながら、物書きをしている身でして、小説の題材に何か良い物はないかと、いろいろ思考を巡らしていたのです」
会話が途切れたのを見計らって、誠一郎が先程の弥生の問に答える。その様子からして、あまり気にしていないようだ。
「小説家……先生でしたか」
「いえいえ、先生だなんて滅相もない!
まだ名も知られていない、小説家の卵のような身ですから」
誠一郎が困ったように笑う。そんな表情でさえ優しさに溢れている。柔らかで、心が暖かくなる。笑顔のよく似合う人だな、と弥生は思った。
そんな会話をしている内に、二人は弥生の家のすぐ傍まで来ていた。辺りはもうすっかり暗く、周りの家々から漏れる光だけが道を仄かに照らし出していた。
「本当にありがとうございました。結局、こんな所まで送ってくださって」
弥生が頭を下げて礼を述べると、気にしないで下さい、と誠一郎が両の掌を見せて笑った。
別れを述べて立ち去る誠一郎の後ろ姿を見送っていると、不意に誠一郎が立ち止まる。どうしたのかと声を掛けようとした弥生に、誠一郎が振り返ってこう言った。
「鈴を……ほら、僕もよくあの遊歩道に足を運んでいるので、その合間にでも探してみます」
「そ、そんな事までして頂かなくとも……」
弥生が言い終わる前に、誠一郎がそれを言葉で制する。
「大事な物なのでしょう?
そうでなければ、あんなに遅くまで必死に探していたりなどしない筈だ」
探している様子を見られていた故に、否定する事は出来ない。弥生が返答に困っていると、誠一郎が言った。
「もし鈴を見付けたら、お知らせします。それでは、おやすみなさい」
そう言って一礼をすると、誠一郎は踵を返して走り去った。弥生が引き留める間もなく、誠一郎の後姿が闇の中に消えていく。その方向に向かって弥生は、おやすみなさい、と小さく呟いた。
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