第2話
遊歩道を抜けると大通りに出る。その道を真っ直ぐ進んで行くと、大きな呉服屋が見えてくる。その角を右に曲がり、少し人通りが少なくなった場所に弥生が勤めている小さな仕立屋がある。店の近くまで行くと、ちょうど店の入り口で御上さんが仕立屋の名前が描かれた暖簾を掛けているところだった。
「おはようございます! 女将さん、今日はいつもより早いですね」
急に背後から声を掛けられて驚いた女将さんは、それが弥生だと知ると顔をしかめた。
「何言ってるんだい! もうとっくに店を開ける時間だよ」
「え? あっ、ごめんなさい!」
弥生が慌てて頭を下げる。いつものように早めに出て来たのだが、遊歩道でゆっくりし過ぎたのかもしれない。いつもなら、店が開く前に辿り着いている。
「ほらほら、早く中へ入って、みんなと仕事の準備をしておくれよ」
女将さんが弥生の背後に回り、その背中を押しながら、店へと入ろうとした。
「あれ、弥生ちゃん。後挿の鈴が一つ取れてるよ」
「えっ、本当ですか?」
慌てて弥生が後頭部に刺してある簪に触れる。すると、その拍子に鈴がちりんと鳴いた。
「大事な物だったんだろう? いつも付けてたものね」
弥生の手に触れたのは、鈴が一つ。元々その簪には小さな鈴が二つ付いていた。
「……いえ、そんなんじゃあ、ないです」
そうかい、と女将さんが首を傾げる。弥生は、暗くなりかけた表情を一転させ、御上さんに笑って見せた。
「さあさ、遅れてしまった分、働かないと」
その笑顔に女将さんがつられて笑みを見せる。弥生の笑顔には、周りの者の心までも明るくする力があった。
その日弥生は、早めに仕事を終わらせて店を去り、その足で朝来た道を鈴を探して歩き回った。取れてしまった鈴は、もう元には戻らない。それでも見付けて、自分の手の内に置いておきたかったのだ。
それは、赤い漆の塗られた可愛らしい簪で、父が生前に買ってくれた物だった。
辺りが暗くなり始めた頃、弥生は遊歩道にいた。いつもなら帰りは遅くなるので、人通りの少ないこの遊歩道を通る事はめったになかったが、今日は致し方ない。弥生は、どうしても鈴を諦めきれなかった。
その時弥生は、鈴を探す事に夢中になり、自分の背後に近づいて来た人影にも気付かなかった。
「もし、お嬢さん。何かお探しですか?」
ふいに背後から声を掛けられ、弥生は驚いて後を振り向いた。その視界いっぱいに、まず見覚えのある紺色の着物が広がる。次に少し顔を上げると、今朝、弥生が遊歩道で見たあの青年の顔があった。
突然の出来事に弥生は、言葉を失った。弥生の視線は、宙で青年のそれとぶつかったまま動く事が出来ない。それは、まるで金縛りに遭ったかのような感覚だった。
「こんな暗い中、女性がお一人で歩いているのは危ないですよ。
それに、探し物をしようにも、こう暗いと見つかる物も見つからないでしょう」
その声は、弥生が想像していたよりも少し高い。
しかし、青年の纏う雰囲気に似合った穏やかな声質だ。そんな事を朦朧とした頭の中で考えていた弥生は、ふと我に返ると、慌てて青年から視線を外した。
その人だと実感すると、妙に意識された鼓動が時を早めるのが解る。一度外した視線は、元に戻す事が出来なくて、そのまま顔を俯けた。
黙ったままでいる弥生の様子を心配してか、青年が慌てた様子で口を開いた。
「どうかそんなに怯えないでください。僕は、決して怪しい者ではありませんから」
と言っても、信じてもらえませんかね。と、青年が苦笑する。弥生は、青年に誤解されたくなくて、顔を上げた。
「そんな、怪しい者だなんて思ってないです!
ただ少し……驚いた、だけで……」
弥生と青年の視線が再び宙で重なる。改めて真っ正面から見る青年の顔は、少し幼く見えた。青年が弥生を安心させようと、優しく微笑む。その表情は、弥生の頬を薄紅色に染めた。
「御自宅は、どの辺りに? 宜しければ、僕が家まで送りましょう」
その表情は優しく、弥生を気遣う青年の心根が伝わってくる。初めは断っていた弥生だが、青年の好意に負け、家の傍まで送ってもらう事となった。
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