【短編】あの遊歩道へ...

風雅ありす

第1話

木々が緑色の葉を付ける季節。

空気は澄み、涼やかな風が木々の合間を通り抜けていく。

葉と葉の隙間から漏れる陽の光が宝石のように煌めき、弥生は目を細めた。

 家から勤め先の仕立屋まで行くには少し遠回りになるが、この遊歩道を通って行く事が弥生の日課になっている。


(今日は、いるかしら)


 石畳の上で下駄が立てる小気味良い音。その音に合わせて小さく歌う簪の鈴。

そして、それらは、いつもの十字路へと差し掛かった。そこには、弥生がこの遊歩道に通う理由がある。

 道の端に目当ての人物を見付けて、弥生は、その白い頬を薄紅色に染めた。そこにいたのは、一人の青年だった。

 ここ数日間ほど見掛けていなかったが、その姿形は変わらない。無地の紺色の着物を身に纏っている。ただ変わった事と言えば、袷から単になった事くらいだろう。

 その青年は、弥生がそこに居る事に気付いていないようだ。袖の中に両腕を入れて、道の両端に立ち並ぶ木々をただ見つめている。

 弥生は、着物の胸元を片手で寄せ合わせながら顔を俯けた。ゆっくりと下駄が音を立てて、青年のすぐ傍を進む。しかし、青年は動かない。

 普段よりも少しだけ早く脈打つ弥生の鼓動。鳥の歌声。緑の囁き。下駄の音に混じって、僅かに聞こえる鈴の音。風が運んでくる朝の薫り。

 それは、弥生が青年の傍を通り過ぎる瞬間。

そのたった数秒にも満たない瞬間が弥生には、とても長い時間のように感じる。

 しばらく歩いて行った所で、弥生が小さな溜め息を吐いた。再び息を吸うと、朝の空気が肺の中を一掃してくれるように感じた。それからしばらくは再び真っ直ぐな石畳が続く。弥生は、その間に平常心を取り戻して、仕立屋へと向かうのだ。

 この一連の動作が弥生の日課だった。


 弥生には父親がいない。生きている頃には、そこそこ名の知れた腕の良い棟梁であったが、ある日仕事中の事故で命を落としてしまったのだ。何よりも大工という仕事を愛していた父だからこそ、幸せな死に際だったと母は言う。それは弥生にとって、母親が自分自身に言い聞かせるかのように聞こえた。

 明るく気さくな父だった。それ故に周囲からの人望も厚く、多くの人がその死を悲しんだ。

 しかし、涙で物は買えない。残されたまだ幼い二人の子供達の為にも、母と長女の弥生が懸命に稼がなければならなかった。その時、弥生はまだ十歳になったばかりだった。

 かくして弥生は、家から少し離れた仕立屋で、お針子として働く事となった。元々手先の器用な子であった為、針仕事は、そうそう苦難を強いる事なく済んだ。また、父親から受け継いだ気性から周囲にも親しまれ、平穏な日々を過ごしていた。

 しかし、いくら働いているからと言って、弥生はまだ子供だ。十四歳ともなれば、平穏な暮らしよりも華やかな暮らしというものに憧れるものだろう。それなのに弥生は、何一つ文句も言わず、懸命に家族の為に働いていた。

 もちろん、弥生に人並みの好奇心がなかったわけではない。同じ年頃の子供がお洒落等をして楽しんでいるのを町で見ては、それを羨ましくも思った。ただ、その事を口に出すと、母親が悲しむ事を知っていたのだ。

 長女としての責任感もあったのだろう。弥生は、その感情を決して表には出さず、周囲にはいつも明るく振る舞っていた。

 そんなある日、弥生がたまたま店の使いで隣町まで足を運ぶ事になった時の事だ。その隣町まで行く途中にある遊歩道を通った。そこで、その青年と出会ったのだ。

 初めて青年を見掛けた時、弥生は、変わった人だな、くらいにしか思わなかった。路の端に突っ立ったまま、何かを見ていると言った様子でもなく、ただ惚けているその様子は、誰の目から見ても滑稽な物にしか映らないだろう。

 しかし、何故か弥生はその青年の事が気になった。惚けていると言っても、決して腑抜けた顔をしているわけではない。それなりに整った顔立ちをしていて、普通に町を歩いていたら少々人目を惹くやもしれない。そんな青年が何故あんな所で一人突っ立っているのか、弥生は知りたいと思った。

 それなりに華やかな暮らしを送っている女性達であれば、そのような青年など一瞥を投げるだけで終わってしまうだろう。自らの欲望を押し殺し、ただ家族の為に働いてきた弥生だからこそ気になったのだ。

 青年を観察するようになってから、弥生の小さな好奇心は更に掻き立てられた。何よりもその青年が醸し出す妙に落ち着いた不思議な雰囲気に弥生は惹かれた。

 そして、気付けば、遊歩道へ行って、その青年を探している自分の姿があった。

 きっかけは、単なる偶然でしかなかったが、それが弥生にとって窮屈な生活の中での唯一の心の拠り所となっていった。

 弥生は、青年のことをよく知らない。ここ数ヶ月の間、何度か十字路ですれ違ってはいたが、ただの一度も言葉を交わした事がないのだ。弥生が傍を通っても身動き一つしない青年と視線が合う事もない。当たり前と言えば当たり前だ。青年は、弥生の存在さえも知らないだろう。

 また、毎日青年と会えていたわけでもない。青年が十字路に来る事は気まぐれのようなもので、一週間に二、三度会えるか会えないかと言う程度のものだったからだ。それでも弥生は毎日遊歩道へ通った。そのたった数秒間のささやかな楽しみの為だけに。仕事が休みの日さえも散歩がてらに通った程だ。

 弥生は、青年の性格も職業も、名前さえも知らない。それ故に、いつも青年を見る度に弥生は、いろいろな事を想像する。どんな声をしているのか、どんな風に笑うのかなど。それでも自分から話しかけよう等とは、一度も思わなかった。

 弥生が青年の事で知っている事と言えば、一週間に1、2度、あの遊歩道の十字路に来ている事。その時は、腕組みをして立っている事もあれば、竹の手摺りに腰掛けて、何かの書物を読んでいる事もある。その程度だ。それでも弥生は、それ以上の事を特別に知りたいとも思わなかった。

 ただ青年を見て、ほんの数秒間すれ違うだけで良かったのだ。



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