第5話  あとがき

   各大学固有の特性が、それぞれの世代の部員たちの個性によって継承され、彼らの肉体的な日本拳法と共に、その思想や哲学にも共感し共鳴できる自分に安心を見い出す。

  大学時代、(愛はないが)同じ「大学日本拳法スピリッツ(本気で、思いっきりぶん殴る → 真実・リアリティーの追究)」に浸った自分を、40年後のいま回想することができました。

  大学は違えど、同じ鈍(どん)くさくて汗臭い防具を着けて真剣にぶん殴り合いをやっていた経験は同じですから、彼らの(ブログに見る)若き感性や理性に「俺はこんなに賢くなかった」なんて思いながら、懐かしさに浸るわけです。


  ブログのどこに「本気でぶん殴るリアリティー」があるのか?と問われれば; → 彼らのものの見方や感性とは、いわばカントの追求した純粋理性を鏡にして映し出された思念であるから、と答えるでしょう。

  カントの大著である「純粋理性批判」3巻(岩波文庫)とは、4年のあいだ大学日本拳法部員であり続けた彼や彼女たちが、練習や試合で打ち・受けた強烈な面突きで鍛えた理性のことです。

  また、日本人(縄文人)の高校・大学生の女性的感性とは、同じ縄文人である、かの紫式部や清少納言のそれと近似しています。ですから、殴って投げてといった、現実の痛みを感じてきた日本拳法女性たちの文章には、仲間たちの真実の心が様々な次元やフェイズによって、非常にうまく詠み込まれています。紫式部や清少納言といった女流文学者の文章とは、日本人(縄文人)固有の純粋理性と豊かな感性由来であるということを、今回初めて実感として知りました。


  「面突きによる理性の覚醒」によって「日本人固有の感性」が研ぎ澄まされた彼ら・彼女たちの文章には、数学的理性と文学的感性が相まって、独自のリアリティーが醸し出されている。それは少女漫画的な単なる感傷という妄想ではありません。さり気ない・何気ない文章の中に、馴れ合いや寸止めに浸りきった感性では見い出せない、人の心の様々な位相を見せてくれるのです。

  早い話が、4年間本気でぶん殴り合いをしてきたからこそ見える(人の心の)真実。

  或いは、人の心の真実を見極めることを可能にする純粋理性と豊かな感性とは、毎日の(ぶん殴り合いという)リアリティーの追求に因るものなのです。


 また、彼や彼女たちの殴り合いを、本気で・真剣に・間近で見ているマネージャーという立場の人たちも、その感情移入の強さによって各人が各人なりの「大学日本拳法をやる」ことで楽しみ(ブログの写真などで、彼女たちの、選手と同じ一瞬のとらえ方・感性が感じられる)、同時に選手たちに大いに感謝されるという、別の次元の楽しみ方をされているのでしょう。


  技術論など書けないので、今回も、中央大学の拳法とか関西学院大学のアルゴリズムなんていう、かなり大雑把で独りよがりの大学日本拳法の話になってしまいました。


  それでも「一寸の虫にも五分の魂」「盗人にも三分の理」と申しますので、なにがしかの役に立てば幸いです。


  今回も大学日本拳法の醍醐味と楽しさを満喫できました。

  審判をはじめ大会関係者のご尽力・学連の皆様の献身、そして各大学の選手やマネージャー、マネージメントの方々の熱意、等々、敬意と感謝しかありません。誠にありがとうございました。


2023年1月13日

V.5.1

2023年3月17日

V.7.1

平栗雅人

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V.7.1 2022年 第67回全日本学生拳法選手権大会 観戦記 @MasatoHiraguri

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