第4話 大阪で見た日本拳法的なる景色

○ 駅の券売機

  大阪の駅の券売機は、東京のそれに比べ「うるさくない」。

  私は、いまだに現金で切符を買うというスタイルなのですが、東京の券売機は、やたらとうるさい。「早く行き先を決めろ、すぐに金を入れろ、早く切符とおつりを取れ」と、責付く(せっつく)。もたもたしていると、券売機から半分打ち出されてきた切符やお釣りの紙幣までもが、ドピュッと券売機の中に引き込まれてしまう。

  「俺は機械ではないんだ!」と、券売機に向かって叫びたくなる。


  ところが、大阪の券売機は、東京のそれに比べて「ゆったり」している(新今宮駅という、場所柄に拠るのかもしれませんが)。東京みたいに機械的ではなく、人の心のリズムを考慮した「せっつき方」をしている、という感じがしました。

 → 相手の動作や心の状態を慮り(推量・思いやる)ながら、相手に何かを即(そく)す・促(うなが)すのが「大阪的」。一方的に無慈悲に自分の都合ばかり優先して事を成し遂げようとするのが「東京的」なJRの券売機であり、それはそのまま日本の政治になっているのです。


○  大阪梅田(地下鉄)駅の案内人

  これは、2019年の全日(府立)の時に体験したことです。

  梅田から地下鉄で西成へ行こうとした私は、切符売り場の前に立つ、大昔(昭和の初め)の駅員さんのような格好をした大柄の男性に声をかけました(宮崎駿「千と千尋の神隠し」の後半に登場する、電車の車掌さんと全く同じスタイル)。

  この男性、帽子から黒いピカピカの革靴まで、レトロ(懐古趣味)そのもの。お腹のところには切符やお金を入れる革製の大きな財布のようなバッグ(60年前のバスの車掌さんがつけていた)を装備し、両手には真っ白な手袋という姿です。


  私の質問は「新世界の入り口(浪速警察署前の交差点)近くの松屋という牛丼屋へ行くには、どの地下鉄駅の何番出口から出たらいいのか」という、厄介なものでしたが、彼がこの質問を口で繰り返した時、そのイントネーションからすぐに彼が外国人だ、とわかりました。そこで「中国の方ですか?」と尋ねると「イイエ、タイワンデス。」と言う。

  そして、そんな面倒な私の質問に対し、彼はスマホを自在に操作し十数秒後には「行き方に2通りあります。・・・、○○駅で下車し、○○メートル○○の方向へ歩くと・・・。」と、まるで優等生のような回答・解説をして下さいました。

  私は、その日本語能力と問題解決能力(アルゴリズム)に感心して、思わず「日本にはどれくらい滞在されているのですか? 台湾のどちらの大学ご出身なのですか?」と、ちょっと立ち入った質問をしてしまいました。

  すると彼はニコニコして「3ヶ月です。台湾大学です。」と。

  台湾大学とは偏差値では台湾でNo.1の国立大学です。また、彼は台湾で事前に日本語教育を受けてきたのでしょうが、来日3ヶ月間で、こうして現実に仕事をこなしているのも素晴らしい。もっと話をしたかったのですが、ほかにも案内が必要な方がいらしたので「頑張って下さい」という、おざなりの(間に合わせの)挨拶をして、私はその場を離れました。

 → この中国系台湾人自身も面白い人なんですが、そもそも、こういう人を採用してアニメの世界を現出してしまう大阪という町の面白み・ツッコミ。

  こんな「遊び心」は(今の)東京にはありません。すっかりK国人的で、面白みのない、心のゆとりのない、食い物ばかりの意地汚い社会(東京駅の地下コンコース)になってしまいました。


  因みに、こういう台湾人は客家(はっか)ではありません。

  客家というのは韓国人と同じで、格好や体裁を(過度に)気にし、見栄を張る。

  「バカになれない」から、人間性に幅と奥行きがない。だから、話していても面白くない。

  「大阪という街は、日本人(縄文人)が面白い区画を作り出すと、いつの間にやら韓国人が入り込んできて、安物の面白みのない街にしてしまう。その繰り返しが大阪ですわ。」とは、数年前に大阪駅のホームでたまたま立ち話をした35歳くらいの男性(大阪人)の話です。

  質実剛健、中身で勝負する日本人(縄文人)や中国人とは、根本的なところが違うのです。(自分たちのアイデンティティーが希薄なので)日本人(縄文人)のようにバカになれないのが、客家や韓国人といった三国人なのです。


  一方、この極めてノリのいい(思いっきりバカになれる)、昔の漫画「ロボコン」のようなおかしみを醸し出す愉快な御仁は、間違いなく中国(系台湾)人です。台湾大学とは、日本の東大とちがい「韓国人枠30人」という、無試験入学・無論文で卒業という風習はありません。


○ 大阪人の胆力

  環状線に乗っている時、扉を挟んで二人の若い男女(全く関係ない間柄)が、スマホの画面を見ながら1メートルくらいの間をおき、向かい合わせに立っていました。電車の中で立っている人たちの間隔は、すべて1メートルくらいの「ガラガラ」という状況です。


  そこへ、反対側の扉から乗車してきた50歳くらいの背の低いオッサンがトコトコ歩いてきて、2人の間に立ちました。このオッサンは、しきりに大きく頷(うなず)いています。数回うなずくと、斜め後ろを振り返り、二秒ほど虚空を見つめて何かを確認するように頷き、再び正面を見て何度も大きく肯きますが、これをずっと繰り返しています。何か精神的に不安定というか問題のある方なのだな、と遠目に見る私にもすぐわかりました。


  乗車してきた時、私はてっきりこのオッサンはその左に立つ男性の知り合いなのかと思ったのです。30センチくらいの近さで男性の前に立ち、彼の方を見てしきりにうなずいていたからです。しかし、その若い男性は無言でスマホの画面を見たままです。

  反対側の女性も同じく、自分のすぐ目の前に「おかしな・変な」オッサンが自分の方を見てうなずいたり、後ろを振り返り指先確認のような仕草をするのを、無視するというか「眼中無」の境地で、スマホを操作しています。

  彼ら男女が、この「気が触れた」ようなオッサンに気がつかないわけがない。気づいているにもかかわらず、彼らはオッサンを「チラリと見る」ことさえなかった(ように数メートル離れた私には見えた)。半歩踏み出せばオツムがゴツンというくらいの近距離なのです。日本拳法でいえば、完全に間合いに入っている状態です。


  この様子は2駅の区間、数分間ほど続いたのですが、この男女には全く変化がありません。私はこの時「大阪人というのは人慣れしているな」と感心すると同時に、日露戦争における有名な日本海海戦の時、連合艦隊司令官東郷平八郎が海戦中の数時間、日本拳法でいう自然体のまま立ち続けた(海戦終了後、艦長室へ戻る時、甲板は海の飛沫でびしょびしょに濡れていたのに、東郷の足の部分だけは乾いていた)という逸話(司馬遼太郎「坂の上の雲」)を思い出しました。そして、この若者たち、東郷平八郎と同じく、もの凄い胆力だな、と感心しました。

  これが東京であれば、危険を感じて「駅員や警察に通報」までいかずとも、もっと間を空ける(後ろに後ずさる)とか、停車した時に一旦降りて別の車両へ行くとかする(東京人が殆ど)でしょう。しかし、「大阪の男女」は、動かざること山の如し・静かなること林の如く。或いは「廬山は煙雨浙江は潮、・・・別事なし」の心境のようです。


  まあ、室町時代からインド象とその調教人の黒人が大阪の町を練り歩いた、なんていうくらい(かつての堺と並ぶ)国際都市の土地柄ですから、歴史的に「人慣れしている」のは伝統というか当たり前なのでしょうが、「大阪人、日本拳法やらなくても胆力あるじゃん」と感心するやら、(大阪人に日本拳法は要らないのか、と)思ったりするやら、でした。


○ 若者の自由なファッション

  「ダボシャツの天」という大阪を舞台にした漫画がありましたが、まさにダボダボのズボン、ちょっと大きめのシャツや(女性の)ブラウスやオーバーやコート、という感じの若者をたくさん見ました。

  関東学院大学日本拳法部のブログ写真に見る、足の輪郭にピッタリとした細身のズボンとは違う、ダボダボ(ゆったり)感です。全国的に有名になった「嗚呼、花の応援団」南河内大学応援団の学ランスタイル(という精神性)は、40年経った今でも続いているのでしょうか。

  ヒョウ柄のパンツにジャンパーという「大阪のおばちゃん」を、今回も何人か大阪駅で見かけ、なんだか安心しました。

  また、長い髪を一本に束ねた丁髷(チョンマゲ)頭のお兄さんが、2リットルのペットボトル(水)の首の部分を持ちながら、プラプラとホームを歩いているのも見かけました。

 → 思いっきりぶん殴る世界であるからこそ、人の性格がそのまま出る日本拳法。それと同じで、大阪は寸止めではなく、真剣勝負・本音の世界。だから、ファッションにも個性が出る。また、逆に言えば、社会の許容度が高いから奇抜なファッションでも「許され」る。若者がかなり自由に、ファッションなどで自分を主張できるのか。東京のようにあまりにも杓子定規にきっちりした社会ではない?



○ 大阪人は生活そのものが漫才?

  23時過ぎたかなり空いている電車内、向かいの席に座る女性二人。

  共に個性的(奇抜というわけではなく、目立たないところで個性を主張するのが大阪流?)なファッションなのですが、漫才のボケとツッコミのような感じで話している。

  東京人にしたら何でも無いことを話のネタにして楽しんでいる?、という印象を受けました。ああいう光景(自然なのに演技的な二人の掛け合い)というのは、そのまま映画やドラマの一部分になるのではないか、と思いました。大阪人というのは、日常生活の何気ない会話自体が、ドラマというか漫才のように、私のような関東人には感じられました。


  大阪人の「人慣れしている」というのは「人に見られている」という意識が根底にある、ということではないのだろうか。電車の中でも歩いていても「人に見られている・人混みの中にいる」ことに違和感を感じないで生きているから、自然な振る舞いなのに役者が演技をしているようなカッコ良さがある。人に見られているということを気にせず、自然体で話をしているのですが、それは東京人の私からすると「演技をしているようにカッコよく」見えてしまう。

  (特に女性の)大阪弁が、私の耳には「歌を歌う」ように、リズミカルで滑らか(柔らか)に聞こえるので、私は大阪の雑踏を歩くのが好きです。


  東京で2人の女性が人混みの中で話している時、その姿は、できるだけ小さな声で、身振り手振りもほとんどなしという「人の目を気にした・遠慮した」というという感じです(大勢の女子高生なんていう場合は、けっこう賑やかですが)。

  東京の人(特に女性)は、概して周りに人がいると声のトーンや話し方がよそいき(あらたまった・格式張った態度)になるような気がします。

  ところが大阪人の場合、何百人もの観客の前で話を(演技を)しているような「見られている」という意識のある話し方や素振りを、ごく自然に行っているかのようです。大声ではないが、小声でもない。人に見られ・聞かれていても気にせずに、2人の世界で会話を楽しんでいる。

  あの時、向かいに座って話をする2人の女性は、静かで上品な漫才を(私だけに)見せてくれていたような気がして、話の詳細はもちろん私にはわかりませんでしたが、その雰囲気(二人のやり取りの妙)で大いに楽しませてもらいました。


  東京でも、(昔の)浅草辺りの人は大阪人と同じで、都会人というか「人慣れ」していたのですが。

  高校生の頃、浅草の友人と待ち合わせをする場所を、仲見世辺り(浅草寺の近く)の公衆電話で話をしていました。電話を切ってから、後ろで待っていた男性が入れ替わりに電話をし始めたのですが、私が「○○の角を曲って、・・・」なんて復唱していると、受話器をそのまま横に置き、「おい、兄さん、○○ってのはあそこに見えるやつで、××という喫茶店は、今となりの食堂が改装工事中で白い幕が張ってあるから、それを目印にすればすぐわかるぜ。」なんて教えてくれてから、受話器の方へ小走りで戻りました。その風体・物腰から察するに、多分○クザの方だと思います。 

  

〇 スーパーで、年配(50歳~70歳くらい)の夫婦というかカップルの、買い物をしながらの会話も楽しい(時がありました)。

  大阪言葉が柔らかいのと、昔(50年前)の大阪の夫婦漫才のような掛け合いに妙味がある。

  たまたま、カートを押した旦那と「大阪のおばちゃん」お二人の会話を近くで聞く機会があったのですが「ああ、俺は大阪にいるんだなぁー」と、実感しました。


  ついでに、スーパー(ライフ)の入り口にある「お客様の声」という掲示板も見ることにしています。特に「お客様のお叱り」と「お客様からの要望」に秀逸なコメントがあることが多く、「大阪を楽しむ」ことができます。


〇 平栗雅人、大阪で義理を果たす

  「義理と人情」とは、なにも○クザの世界ばかりではありません。


  JR新今宮駅 通天閣出口、ドンキホーテがある大きな通りが線路の下をくぐり、難波方面へ延びています。  ドンキホーテの向かいに当たるところにダイソーがあるのですが、そこで買い物を終えた私が、歩道に停めてあった自転車に乗ろうとしていると、両人共に80歳を過ぎたという感じの老夫婦が近くに来て、おばあさんの方が「えべっさん(恵比須神社)」はどこでっしゃろか」と尋ねます。

  「私は東京の人間なんでよく知りませんが、確かあっちの方角なので、この大通りをまっすぐ行ってどこかで左に曲ればいいんじゃないでしょうか」なんて言うと「おおきに」と頭を下げてから、2人でとぼとぼ歩いて行きます。

  その(もの悲しい)後ろ姿を見て「こんないい加減な解答でいいのか」と、強い慚愧の念が鬱勃(うつぼつ)として湧いてきます。


  たまたま、向こうから歩いてきたアベックに尋ねると、若い男性は「どこやろなぁー」と心許ない返事(あんた大阪人でしょ !)。

  私が老夫婦に答えたことをそのまま言うと、隣の女の子が「それでええんや。ものごと、あんましはっきりさせたらアカンのや。」なんて言う。「これが大阪流の感覚なのか」なんて、慰められているのか、ごまかされているのかわからないまま「はあ」なんて言っていると、今度は男性までもが「そうやそうや、そんなんでええんや」なんて言う。


  しかし、彼らが行ってしまってから、益々後悔の情が募ってくる。

  あの老夫婦が若者であれば、スマホもあるし、仲間同士でキャッキャ言いながら「道に迷う」のも楽しみとなるでしょうが、私と同じでスマホも持たない老人です。一本、道を間違っただけでも、お年寄りにとっては難儀なんですから。なんて、しばらく考える。


  「そうだ!」とばかり、自転車に飛び乗り、20メートルくらい先にある古本屋の店主に自転車に乗ったまま声をかけ、今までの事情を話すと、さすが地元民。「この大通りを行って5つめの信号を左に曲ればすぐや。恵比須町という看板が信号にかかっとる。あんさんの言う通りで大体おうとるで。」と。


  礼を言ってすぐさま自転車を走らせると、10分近く経っているというのに、まだすぐそこにいる。後ろから声をかけ、古本屋の親父の言う通りを伝えると「ご親切にわざわざ、おおきに」と大きく頭を下げ、再び、とぼとぼと2人して歩いて行きました。  ここに至って、ようやく「試合終了」。


  「人心受け難し、今既に受く」

  「仏法聞き難し、今既に聞く」

  無宗教の私にしてみれば、「仏法」はどうでもいいことですが、なんにしても、  この広い大阪で、何百・何千人もいる新今宮駅前の雑踏の中で、この私を選び、道を尋ねてくれたというのは「義」であり、それにストレートに・正直に応えるのが「理」であると考えます。

  また、高校時代のくだんの浅草○クザ(江戸っ子)の方ではありませんが、何の気なしに耳に入った、聞いてしまった以上、教えてあげる。それが同じ日本人(縄文人)としての義務であり義理というものではないのでしょうか。


  しかし、その後の3時間、銭湯で湯に浸かったりサウナで汗を流しながら「あの老夫婦、あんなにゆっくりした足取りで今晩中にたどり着けたのだろうか」と、冗談ではありますが、少し心配になりました(500メートルくらいの距離)。  


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