一瞬、リッケは自分の身に何が起きたのか分からなかった。主の唇が自分の額に触れ、心臓がこれまでに無い程にトクトクと大きく波打っている。身体中がなんだかくすぐったくて、でも決して不快ではない。それどころか、リッケの心は幸せでいっぱいになっていた。その後、主はリッケを座らせ、部屋を後にしてしまった。

「…アルドル。今のは、一体、」

傍に寄ってきたアルドルに尋ねた。アルドルも、まさか彼がこんなことをするだなんて思いもしなかったのだろう。リッケ同様に困惑の表情を浮かべながら答える。

「あれは…キスって言うのよ。大切な人や、愛する人にしかしないものなの。主様、リッケくんに『愛してる』って言ったでしょ?それは相手を本当に大切に思っている証なのよ」

「大切に…」

 リッケは自分の手を見た。主がリッケのために作ってくれた手。指の隙間からは主が縫ってくれた新品の服、その下にはこれまた主の作ってくれた足。リッケの体は、主からの贈り物でいっぱいだった。

「…僕、主様から大切に思われているんだね」

 それなのに僕は…。リッケは俯いた。僕は、そんな主様の気持ちなんて考えず、人間になりたいだなんて勝手なことを願っていた。リッケにはそんな自分が酷くみっともなく思え、後ろめたさに胸が締め付けられるように痛んだ。主様、ごめんなさい。貴方に貰ったこの体を捨てようとしていたなんて。僕はなんて酷い人形なんだろう。下を向きながら、リッケは何度も謝罪の言葉を漏らす。

「ごめんなさい…僕、主様の隣に立ちたかっただけなんだ。主様が僕にしてくれたみたいに、僕も主様になにかしてあげたくて…そうするためには人間になるしかないから…っ」

 そんな様子に、アルドルはそっと近づき、リッケの背中を優しく摩った。

「なぁ、リッケ。お前は昨日、主になにもできないって言ったよな。でも、それは違うんじゃないか?主はきっと、お前に沢山の幸福を貰ったんだ。だからリッケって名前をつけたし、『愛してる』ってキスをしたんだと思う。お前の存在が、主にとって大切なんだ」

 ルードゥスの言葉にアルドルも大きく頷く。二人は優しい。リッケは二人に溢れんばかりの感謝をした。リッケは再び自分の手を見つめた。この手を初めて貰った時のことを思い出す。

『君を見ていると、僕の心まで温かくなる。本当に不思議な人形だね』

 その言葉を始めとして、これまでに主からかけてもらった優しい言葉の数々を、リッケは次々と思い出した。初めて会った時、腕をくれた時、"姉貴"さんに言われたことを申し訳ないと言ってくれた時、足をくれた時、服を縫っくれた時、名前をつけてくれた時、キスをしてくれた時、毎日毎日おやすみを言いに来てくれた時。いつだって、主のかけてくれる言葉は温かく、優しさで溢れていた。そんな主だからこそ、リッケは恋をしたのだ。では主はどうだろう。もしも、リッケが人形でなかったなら、同じように優しさを向けてくれていただろうか。美しい、綺麗だ、幸せをくれる、あんなに素敵な言葉を何度も何度も唱えてくれるだろうか。

「…僕が、人形だったから」

 おもむろにつぶやき、ゆっくりと顔を上げた。突然動きの止まったリッケに、二人の不安は募る。しかし、二人の不安は、次のリッケの言葉によって困惑へと変わった。

「…ねぇ、ルードゥス、アルドル。僕もう人間になりたいだなんて思わないよ」

 さっきまでとは打って変わって、清々しい表情のリッケの告白に、二人は驚いた。

「どうして?あんなに人間になりたがっていたじゃない」

 アルドルが不思議そうに尋ねた。ピノキオの話を聞いてから、それこそ恋という感情を知った時から、リッケは人間になることを強く夢見るようになった。主と同じ言葉で話し、同じように動き、共に過ごす。そんな夢のような生活に強い憧れを持ってしまっていたのだ。そんなリッケの思いを知っていた二人にとって、今の言葉は正に耳を疑う一言だった。

「思いが消えたとでも言うのか?」

 ルードゥスも恐る恐る尋ねる。

「いいや。僕は、今でも主様を愛しているよ」

 愛している、主の言葉を真似るように使うリッケ。ならどうして、そう零す二人にリッケは笑って答えた。

「だって、主様は、僕が人形だからこんなにも優しくしてくれたんでしょう?もしも、僕が人間だったなら、主様は僕を見つけてくれるどころか一生かかっても出会うことすらできなかったかもしれないんだよ。僕が人形だったから、主様に会えたんだ」

 そう、リッケは言った。これまでの主の優しさは、全て人形である自分に向けられたものであったと気づいたのだ。それは、裏を返せばこの思いは実ることの無いものだという辛い現実でもあったが、それに反してリッケの心は思った以上に穏やかだった。

 "自分は人形だから、主の特別にはなれない"。これまでずっと、リッケはこの現実に苦しめられてきた。どれだけ人間になりたいと願っても、その願いが叶うことは無いことも分かっていた。それでも、もしかしたら、きっと、これらの言葉を星の数ほどに並べて、来るはずもない未来をただ想像し、受け入れ難い現実から逃げてきたのだ。

「主様は、僕が人形だから好きになってくださった。本当に主様を愛しているからこそ、これからも主様にとって一番の姿でいたいんだ」

「リッケ…」

「僕、人形として生きていく。主様が好きになってくださったこの身体で、主様が治してくださったこの身体で生きていくよ」

 でも、この思いを捨てる訳では無いからね。当たり前でしょ?とでも言うように、リッケは付け加えた。人間になるのを諦めることは、その恋を終わりにすることと同義だとルードゥスもアルドルも思っていた。しかし、どうやらリッケにそのつもりは微塵もないらしい。

「僕はこれから先も、ずっとずっと主様を愛し続けるよ。何があってもこの気持ちを忘れたくないんだ。もともと僕には感情がなかったけれど、今の僕には沢山の感情がある。これも全て主様からいただいたものだ。喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、そして恋も。全部、全部僕にとって宝物だもの。一生忘れてなんてやるものか」

 そう言い切るリッケの表情は、これから先の人生への希望で満ちていた。人間的に言えば、リッケは失恋した、とネガティブな表現で表されるに違いない。しかし彼はこれからも愛し続けるという、単なる失恋とはまた違う形をとって、主への忠義を尽くそうとしているのだ。

「…お前は強いな」

 ルードゥスは言った。アルドルも、隣で静かに頷く。誰も、リッケの思いを否定したり、反対する者はいなかった。それは両者のリッケを見つめる視線からも明らかであった。二人にとって、リッケは友達という線を超えた、人間で言う家族のような存在であり、そんな素晴らしい友人の新たな門出を祝う気持ちでいっぱいなのだ。

 そんな二人の眼差しの向こうには、空を見上げ、心晴れやかな笑みを浮かべるリッケの姿があった。ボロボロだった自分を見つけ、買い取り、ここまで直してくれた主。彼は心に心音を流し、手、足に熱をくれた。服という温かみをくれた。そして何より、恋をする、人を愛する感情をくれた。苦しかったこともあったが、主の家に来てからの毎日が、リッケにとっての幸福だった。きっとこれからも、恋に悩み、愛に苦しむことが多々あるだろう。また人間になりたいと思ってしまう日が来るかもしれない。それでも、リッケは主の傍から離れることだけはしないと心に決めた。自分を愛し、自分が愛した彼を、この命が燃え尽きるまで想い続けることが、リッケにとって生きることだと気づいたからだ。

 リッケは窓から空を見上げ、神様にお礼をしなきゃね、といつもの笑顔で二人に声をかけた。目を閉じて、両手をギュッと握りしめる。

 

神様、ありがとう。

人形の体に僕という命を吹き込んでくれて。

神様、ありがとう。

僕を主様に出会わせてくれて。


僕もう、人間になりたいだなんて思いません。

これからも僕は人形として生きていきます。

大好きなあの人の隣で、近くで、彼の望む姿で。




 

 だって、僕は人形だから。


 

 

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