愛
愛
アルドルが来てから季節はあっという間に流れていき、いつの間にか太陽の光がさんさんと照り着く、暑い夏が来ていた。もちろん、彼ら無機物にとって、暑さ等はなんの障害ともならなかったが、人間である主にとってはそうもいかない。毎晩ドールの元を訪れては、毎日暑くて嫌になる、夏は嫌いだよ、と零す。そんな主の愚痴とも取れる話に、ドールは心の中で楽しそうに相槌を打ち続けた。主にとって何が嫌で何が好きなのか、このようなちょっとした会話から、主のことを知ることが出来るのはドールにとっての小さな幸せだった。そして主が寝静まると、ルードゥスやアルドルに主との楽しい話の数々を話して聞かせるのだ。
「主様のお話は、聞いててとっても楽しいんだ。僕、あの方の話なら何時間だって聞けるよ」
「お前は変わってるな、俺はあんなつまらん話は数分だって耐えられないね」
「あらそう?人の話を聞くのは楽しいものよ?」
二人それぞれの反応に、ドールは笑みをこぼす。主のことを二人と共有できるのが何よりも嬉しかった。
「それにね、主様は僕をとても大切にして下さるんだ。頭をね、こう、優しく撫でてくれるのが嬉しい。主様の手は温かくて、あの手に触れると僕の心も温かくなるんだよ」
毎晩のように頭を撫でる主の手が、ドールは何より好きだった。少し冷たくなった指先に、体温を多く残した大きな手のひらは、主が生きていることを思わせ、それはドールの冷たい体に流れ混んでくる。その瞬間、ドールは
「そんなもんかね。さぁ、今日はもう休むぞ」
ルードゥスの声に、アルドルと共に返事をする。そのままドールは明日への期待、希望を持ちながら意識を手放した。明日もきっと素晴らしい日になる。そう信じて疑わずに。
『そんなボロ人形に費やす時間があるなら、もっとやることがあるでしょ』
『そんなこというなよ、姉貴』
翌朝、ドールは二人の会話によって意識を戻した。もちろん動いてなどはいないが、彼は驚きが隠せなかった。なぜなら主の声が、これまで聞いた事のないほどに低く、冷たく感じられたからだ。これが怒りというのだろうか。それは以前、ルードゥスとの会話にでてきた感情のひとつであったことを、ドールは思い出した。主はその『姉貴』という人に対して怒っているのだろうか。頭の中にこびりついて離れない『ボロ人形』という言葉、それは果たして自分のことなのだろうか。数々の疑問を浮かべながらも、ドールはただじっと座りながら彼らの話を聞くことしか出来なかった。
『…あんたの言い分も分かるけど、これからのこともちゃんと考えなさいよ?』
『分かってるよ、ありがとうな』
うん。でも、最近元気そうで安心した。その点では、あのドールにも意味があったみたいね。そう言い残し、『姉貴』さんは部屋を出ていった。玄関のドアが開く音がして、それ以降『姉貴』さんの声が聞こえてくることは無くなった。主は再び部屋に戻ってくると、ドールをそっと抱き上げる。
『ごめんな、ドールくん。嫌な事を聞かせたね。姉貴だって悪気はないんだよ。でも、それでも嫌なものだったよね…本当にごめんね』
どうやらボロ人形が指していたのは、ドールのことで間違っていなかったらしい。ボロボロだったのは本当のことであるし、実際ドールもそこまで気に止めることはなかったのたが、なにより主の気遣いが彼には嬉しいはずであった。そう、はずだったのだ。
『それじゃあ、またねドールくん』
いつもの定位置にドールを置き、そっと頭を撫でる。いつもなら心地よいその行為も、今日はなんだがいつもと違っている。主が部屋を出ていった後も、ドールは中々動き出すことが出来なかった。
『そんなボロ人形に費やす時間があるなら、もっとやることがあるでしょ』
ドールはその日、この言葉が脳裏に焼き付いて離れなかった。互いに怒りの感情を持っていたにせよ、最後は優しく声を掛け合っていた二人。たった数十分の時間であったが、ドールの知らなかった主の声の多くがそこにはあった。きっとそれは、ドールだけではこの先知ることも出来なかったであろう声であり、そのことがどうもドールには引っかかっていた。
「どうした、ドール。元気がないぞ」
黙りこくったドールに違和感を覚え、ルードゥスが声をかけた。ルードゥスの声に、ドールは返事をしようとするが、息が詰まるような感覚がして口からでたのは言葉ではなく、苦しく吐き出された微かな息だけであった。胸が締め付けられるように痛い。気づけば手で胸をぐっと掴んでいる。頭の中がまるで電流が流れているかのようにピリピリと痺れ、また頭の中に無数の言葉が溢れてくる。
だめ。主様の声は僕のだから。
「!!」
「…ドール?大丈夫か?」
やめてよ。ダメだよ。主様、怒るなら僕を怒って。そしてまた僕の頭を撫でて。その柔らかい、優しい声を僕だけに聞かせて。
「ドール?」
ダメだよ。どうして僕と話してくれないの。他の人といる方が主様は楽しいの?僕だけじゃダメなの?どうして『姉貴』さんには怒りをぶつけられるの。ねぇ、ねぇ主様。
「ドール!!」
「!?…ルードゥス、」
その声は震えていた。ルードゥスは慌てた。ドールのそんな声はこれまで聞いたことがなかったからだ。どうした、再び尋ねると、ドールはゆっくりと呟いた。
「僕、おかしくなってしまったみたい」
ルードゥスには最初、ドールがどういった意図でこの言葉が出たのか分からなかった。またいつものように主への思いなのかとも思われたが、どうやらそれは違うらしい。厳密に言えば違いは無いのだが、いつものようなポジティブな意味のものとは訳が違うようであった。
「主様、さっきの人と楽しそうに話してた。他の人と主様がお話しているの、お店の店長さん以外で初めて聞いた…。最初は怒ってたけれど、最後は凄く楽しそうだった。あんな話し方もするんだって、知れたことが嬉しかったはずなのに、ここが痛くなったんだ。今までみたいに心地いいものではなくて、なんだか、凄く嫌な感じ…」
ルードゥスは黙ってドールの話を聞いていた。気がつけば隣には、ルードゥスの叫び声を聞きつけたアルドルも立っていた。二人は静かにドールの声に耳を傾ける。
「そしたら、頭の中に沢山の言葉がでてきて、全部酷い言葉なの。主様は僕のなのにって、僕とだけ話してくれたらいいのにって…」
話しながら、いつだかと同じように手を胸に置いている。初めて手を貰った時と同じように、でも苦しそうに胸を押さえ込んでいる。
「どうしよう、ルードゥス。僕 、苦しいよ…助けて、ルードゥス」
僕、嫌な人形になっちゃったよ。今にも泣きそうな声で、ドールは不安を漏らした。そんなドールに声をかけたのは、ルードゥスではなく、アルドルだった。
「ドールくん、そんなに苦しまないで。大丈夫、ドールくんはおかしくなんてないわ」
ドールの手を握りながら、アルドルは優しく言った。
「でも、でも…」
「嫌な人形になんてなっていないわ。ドールくんは何もおかしくないの。それは当然の気持ちなのよ」
「…当、然?」
ルードゥスには、アルドルが何を言おうとしているのかが分かってしまった。それは、ルードゥスが一番恐れた言葉であった。
「だって、それは貴方が「やめろアルドル」」
アルドルの言葉はルードゥスによって遮られた。アルドルの表情か険しいものに変わる。
「ルードゥス、」
「別の言葉があるだろう。まだ決めつけるべきじゃない」
「…大切に思う人なら、そう思うこともおかしくないってことよ」
納得いかないとばかりにルードゥスのことを睨みつけながらも、本当のことは伝えずにとりあえずの言葉でその場を収める。そうなんだ、ドールは少し落ち着いたように肩の力を抜いた。
「どうして、私を止めたの?」
その日の夜遅く、アルドルはルードゥスに尋ねた。
「…」
ルードゥスはすぐには答えなかった。アルドルの疑問はさらに深まる。そもそもアルドルには、なぜルードゥスが自分を止めたのかが分からなかったのだ。
「ねぇ、教えなさいよルードゥス」
はぁ…、ルードゥスはひとつため息を着くと、仕方なしに問いかけた。
「お前は、あのドールが恋を知ってどうなるかを考えたことがあるのか」
「どうなるか、ですって?」
「あの純粋で真っ直ぐなあいつだ。想いのままに突っ走るに決まっている。でもな、あいつはただの人形なんだ。人間では無いんだよ。それが何を意味するのか、お前なら分かるだろう?」
ドールは人形で、彼は人間である。ここまで言われれば、いくらアルドルでもルードゥスの言いたいことはわかった。
「…つまり、思いに気づいたところで、ドールくんの気持ちが実ることはないってこと?」
ルードゥスは無言で頷いた。
「でも、たとえそうだとしても、ドールくんが思いに気づいてはいけない理由にはならないわ」
確かに、ドールにとって主は、決して思いを実らせてはならない相手であった。それはアルドルにもよく分かっていた。しかし、だからといって、その気持ちに気付かぬふりをするのもまた、アルドルにとって納得できるものではなかった。だってそれでは、自分の気持ちに嘘をつくのと同じことではないか。
「…ルードゥス、ドールくんの思いが、いけないものだとでも言うの?」
「…それは、」
ルードゥスは答えることが出来なかった。もちろん、ルードゥスだってドールの思いを否定などしたくはなかった。しかし、認めてはいけないものであることもまた事実なのだ。そんなルードゥスの思いなど知りもしないアルドルは、ただ黙り込むルードゥスに怒りが抑えられなくなっていた。
「つまりルードゥスは、ドールくんの苦しい思いなんか知ったこっちゃないって言いたいのね」
「そうは言ってないだろう」
「言ってるじゃない!そんなに周りが大事!?大切なのは自分の心でしょう!?」
声を荒らげるアルドルに、ルードゥスも自分を抑えられなくなる。これまでにない熱く苦しい思いが喉元につっかえているようで息苦しい。
「どうせ、ルードゥスは恋なんてしたことないんでしょ?苦しんだことなんてないからそんなこと言えるのよ」
その言葉で、ルードゥスの中で何かがぷつりと音を立てて切れた。あぁ、そうか。これが怒りなのか。そう気づいた頃にはもう遅かった。
「…お前に何がわかる」
今までと明らかに違う声のトーンにアルドルも身構える。
「こんな体で、何が恋だ。お前には俺がどう見えてている?女だろう?どれだけ綺麗だ、素敵だと言われたところで自我が男の俺にそんな言葉が響く訳があるか。これまで、俺がどんな思いで生きてきたか、お前には分かるのか?何度この絵が汚れて、破れてしまえばいいと思ったことか。自我と見た目が合っているお前らがどれほど羨ましいか!俺は恋をしないんじゃない。こんな自分が嫌いで、醜くて、したくてもできないんだ!恋に現を抜かしているお前らとは違うんだよ!」
アルドルは絶句した。初めて聞いたルードゥスの心からの叫びに、なんと言っていいのか分からなくなったのだ。自分はなんてことを言ってしまったのだろう。後悔の念が、アルドルの体内に驚くべき速さで浸透して行った。
「…ルー、ドゥス」
「…」
何も言わない。アルドルは一言謝罪すると、自分の位置へと戻って行った。いつもなら、愛しのくるみ割り人形のことを考えるこの時間、今日はルードゥスの言葉が何度も頭の中で繰り返される。これまで、一言だって漏らすことのなかったルードゥスの苦悩、悩み、生きづらさ。アルドルは、自分がいかに無知で、自分勝手であったかを痛感した。
ルードゥスもまた、アルドルに放ってしまった言葉の数々に悔やみきれない思いを抱えていた。これだから自分たち無機物が感情を持つべきではなかったのだ。背負い込むものが多すぎる。この気持ちが落ち着くのを待つ間、脳内をアルドルの謝罪する声が響き渡る。消え入りそうな声で、ごめんなさいと零したアルドルの気持ちは、どんなものだっただろう。心なんて無いのに、凍りつくように冷たくなっていくのが分かる。あぁ、アルドル。幼稚な俺を許してくれ。その日の夜は二人にとって、いつもの何倍も長い夜であった。
「右、左、そうそう。上手よドールくん」
「ありがとう。アルドルが手助けしてくれるおかげだよ」
翌日の昼間、ルードゥスは歩く練習をするドールとアルドルの様子を見ていた。昨夜の言い争いから一夜が明け、当たり前のようにルードゥスの怒りは収まっていた。それどころか、あれだけきつく当たってしまったことへの罪悪感でおしつぶされてしまいそうですらあった。
「ドールくん、どんどん歩くのが上手になるわね」
それはアルドルも同じであった。これまでのルードゥスへの言葉や、昨夜の態度、全てに申し訳なさが募る。その結果、二人は朝から一言も言葉を交わせていなかった。
「ねぇ、アルドル。僕、窓の所に行きたいな」
今日はまだ小鳥たちに挨拶をしていないからね、アルドルは頷き、ドールの手を引きながら窓へと近づいた。二人で窓枠に座り込み、暖かな太陽の光を体いっぱいに浴びた。陽の光は温かく、とても気持ちが良い。けれどアルドルの心は陽の光のように明るくなることはなかった。昨日のルードゥスとの会話が思い出され、それはアルドルの中に、暗い影を作り出していたのだ。
「アルドル、ごめんね」
突然、小さな声でドールは謝罪の言葉を漏らした。それが自分に当てられたものなのだと気づいたアルドルは目を見開いて彼を見る。
「どうしたの、ドールくん」
何故だろう、変な胸騒ぎがする。心臓がドクドクと波打ち、全身が緊張で強ばっていくのが分かった。ドールはもしかしたら、何か知ってしまったのかもしれない。そう思うと、続きを聞くのが怖かった。
「二人は、僕のせいで喧嘩しちゃったんでしょ?」
「…喧嘩?」
二人、というのはおそらくルードゥスとアルドルのことだろう。喧嘩という予想もしていなかった言葉に、なんと言っていいか分からなくなってしまった。しかし、ドールの話はここで終わりではなかった。ハッキリと言ったのだ。昨日の夜の、二人の会話を聞いてしまったと。
「え…」
アルドルは頭が真っ白になった。それは、ルードゥスが必死に隠そうとしていたドールの主への思いが、彼に知られてしまったということだから。恋。言葉にしてしまえばたった一文字の短い単語。しかしその意味は、彼ら無機物が背負うのにはあまりにも重すぎるものだった。アルドルのように、無機物同士であったなら、ここまで重く捉えることは少なかっただろう。しかしドールは違う。無機物と人間、決して超えてはならない障害をもつ思いだからこそ、気づいてはいけなかったのだ。
「アルドル、ルードゥスの所へ連れて行って。二人は仲直りしなくちゃだめたよ」
自分のもつ思いの名前を知り、決して穏やかでは無いはずのドールから零れた、優しく、純粋な一言に、アルドルの胸は締め付けられた。どれだけ自分が苦しくても、この人形は他人のことを常に考え行動に移す。それが、アルドルにとって余計心を痛める要因となった。
「どうした、もう歩く練習は終わったのか?」
ルードゥスが二人にそう声をかけた。アルドルは彼の顔が見られずに下を向いていた。反対にドールは、見えない目を必死に凝らし、ルードゥスをじっと見つめる。
「ねぇ、ルードゥス。アルドルと仲直りして欲しいんだ」
その言葉に、ルードゥスはアルドルを見た。するとアルドルは、ルードゥスの視線に気づき、首を大きく横に振った。違う、私じゃない。私がドールくんに話したんじゃない。じゃあ、どうしてこいつは昨夜の俺たちのことを知っているんだ。そんなやり取りが互いの脳内で繰り広げられる。実質的な沈黙を破ったのは、他でもないドールであった。
「アルドルのせいじゃないよ、僕が勝手に聞いたの。僕のこの気持ちは、いけないものなんでしょ?」
いけないもの、それがドールなりの解釈であった。とても簡易で、けれどしっかり本質を捉えた六文字。そこにどうして、と疑問は無かった。人形が抱えてしまった人間への想いが結ばれやしないことなど、ドールにも分かっていたからだ。
「大丈夫。僕、二人の言うこと分かったよ。だから、二人にも仲直りして欲しいんだ…。僕のせいで、大好きな二人が喧嘩するのは嫌だよ…」
喉に何かがつっかえたような違和感に苛まれ、言葉が思ったように出てこなかった。そんなドールの言葉は、二人の心にまるで氷のように冷たく突き刺さる。たまらなくなったアルドルは声を張った。
「ドールくん、それは違うわ!昨日は、私がいけなかったの…ルードゥスの気持ちを、何も考えないであんなことを言ってしまったから…」
アルドルはルードゥスに向き直り、再び謝罪の言葉を述べた。それに慌てたのはルードゥスだ。納得いかないとばかりに「俺だって悪かった」と言うも、アルドルはその謝罪を受け入れなかった。
「…アルドル、意地を張るなよ。俺だって悪かったんだ。頼むから謝らせてくれ」
罪悪感で押しつぶされそうなんだ、そうルードゥスが言うと、アルドルは小さく頷いた。彼の辛い気持ちは、昨夜彼女も十分味わったので、よくわかっていたから。その様子にルードゥスは微笑み、今もなお不安気な表情を浮かべているドールに向かって言った。
「…ほら見ろよドール。俺たちはもう大丈夫だ。」
「…ほんとうに?」
「あぁ。そうだろう?アルドル」
ルードゥスの問いかけに、アルドルは無理やりに笑顔を作り、ええ、と返事をした。アルドルの返事に、ドールはほっとしたように微笑んだ。
「良かった、二人がまた仲良くなって」
「俺らのことより、お前は大丈夫なのか?前みたいに、苦しくなったりしていないか?」
そう、ルードゥスの本当の心配はここであった。以前、主の姉が尋ねて来た時、ドールは嫉妬心から感情が抑えられず、あんなにも苦しそうに言葉をこぼした。自分が悪者になってしまった、おかしくなってしまったと苦しんでいたあの時のことを、ルードゥスは忘れられなかったのだ。
「うん。僕は主様に恋をしていたんだね。分かってよかったと思っているよ」
「…そうか」
言葉は、いつものドールの言葉に違いなかった。しかし、ルードゥスは気づいてしまった。そう話すドールの表情が一ミリも笑っていなかったことに。
その日の夜、アルドルは再びルードゥスの元を訪れていた。
「アルドル、どうした」
アルドルは答え無かった。どうやら昨夜のことが彼女の中であまりに大きく響いてしまったらしい。ルードゥスは申し訳なく想い、まずはそばに座るようアルドルを促した。
「…本当に、平気なの」
今が夜でよかった。もし昼間であったなら、今のアルドルの問いかけは、周りの音にかき消されていたことだろう。それほどまでに、アルドルの声は小さく、儚かった。ルードゥスは問に答える。
「あぁ、もう本当に大丈夫だ。お前こそ、俺のこと恨んでやしないか?」
「まさか。むしろ、あんなこと言ってしまって、自分の方こそ恨みたい気分だわ」
「気にしてはいないんだがな…」
アルドルがここまで落ち込むと、自分はどうしていいのか分からなくなる、そうルードゥスは思った。いつもはアルドルが強気で、自分が気持ちを抑えることの方が多く、そんな関係が自分たちには最適であると思っていた。だからこそ、アルドルの落ち込んだ姿に、どう対応していいのか分からないのだ。
「…なぁ、アルドル」
泣くなよ、そう声をかけるルードゥスに、アルドルは微かな怒りを覚えていた。泣くはずないじゃない、物だもの。そう言い返すと、そうだな、と彼は小さく笑った。
「アルドル、もう気にしなくていい。そんなことを気にするなら、一緒にドールのことを考えてくれないか。ああは言っていたが、あいつは今きっと苦しんでいる。恋だと知って、あいつが何も行動をしないわけが無い。あいつの気持ちを応援して、間違いがあれば指摘する。それをしてやる人が必要だ。俺だって、できる限りはあいつの力になってやるつもりだが、俺なんかより、恋を知ってるお前の方がよっぽど力になれるはずだよ」
いっしょに、その言葉にアルドルは下を向くのをやめた。ルードゥスの言う通りである。叶わぬ恋がどれほど辛いものか、それをアルドルはよく知っている。昨夜のことを水に流すなどと簡単に言っていいものでは無い。しかし今は状況が状況である。アルドルはルードゥスの言葉に頷くと、既に意識を手放しているドールのことを見つめた。
「ねぇ、ルードゥス?ピノキオって知ってる?」
ある日の朝、ドールはルードゥスに尋ねた。
「ピノキオ?あの嘘をつくと鼻が伸びるやつか?」
「そう!この前、主様が教えてくださったんだ」
家主はなんてものを教えてくれたんだ。そうルードゥスは思った。主への思いを自覚してしまったドールに、ピノキオなど教えてしまったらどうなるか分かりきっていたからだ。さっきは鼻が伸びる話だなんて言って誤魔化していたが、この物語の本質は、木で作られた操り人形が人間の男の子になりたいと願うものだ。そして人形同様に、彼を作った職人もまた、彼が人間の子どもになることを強く望んだのだ。
「ねぇ、ルードゥス。僕もお星様にお願いをしたら、人間の子どもにしてもらえるかな」
「なんだって?」
今夜は星がたくさん出てくれるといいな、だってそうすれば、たくさんお願いができるでしょう?痛いほど純粋なドールにルードゥスは何も言葉を返せなかった。まさか、人間になりたいと言い出すなんて。しかし、今否定したら、ドールはどうなってしまうだろう。ルードゥスはアルドルの方を見た。案の定、彼女もまたドールの言葉に驚きの表情を浮かべている。しかしそんなドールに対し、二人は何も言うことは出来なかった。
それから毎晩、ドールは手を合わせて星に祈っていた。僕を人間にしてください。主様と話せる体をください。主様の隣を歩ける体をください。それは日によって言葉を変え、その都度ドールが主としてみたい姿の想像を混ぜたものであった。話したい、歩きたい、いづれも今の体ではできないことばかりで、それら全てがドールの願いであった。来る日も来る日も止まない祈りに、ルードゥスとアルドルはただ見守ることしか出来なかったのだ。
そんなある日、いつもは聞こえてくるはずもない時間にもかかわらず、ドアの外から足音が聞こえてきた。
「ドール、元の場所へ戻れ」
歩く練習をしていた二人にルードゥスが声をかける。アルドルはドールの手を引き、定位置に座らせた。小さくありがとうとお礼を言うと、ドールいつものようにパタリと動かなくなる。ガチャリとドアが開き、主が中へ入ってきた。
『ドールくん、君の新しい服ができたよ。似合うといいんだけれど…』
ドールを片手に持ち、器用に真新しい服を着せていく。襟元に付けられたレースを綺麗に整え、ボトムスを新しい足から滑らせ、靴を履かせていく。流石と言ったところだろうか、上下共に服のサイズはピッタリであった。
『うん、君にぴったりだ。苦手な裁縫を頑張った甲斐があったよ。これで、やっと全て揃ったね』
ドールの体を優しい手つきで撫でる主。手、足、服、全てが新品同様に生まれ変わった。あと残すは目だけである。やっと君の目を見る事が出来る、主は嬉しそうに笑みを零した。
『目は明日、時間のある時にゆっくり仕上げてあげようね。それまでゆっくりおやすみ』
いつものように優しく撫で、主は部屋を出ていった。ドールは腕を動かし、先程着せてもらった真新しい服に触れた。
「わぁ…!」
まず驚いたのは、その触り心地である。艶々とした生地の周りに細やかな装飾の入ったレースが付けられ、見えていなくとも分かる服の優美さに、ドールは感嘆の声を漏らした。
「ねぇ、ルードゥス、アルドル!みて!新しい服だ!」
二人も同様、ドールの服の美しさに言葉を失っていた。ドールの髪色に合わせた濃い赤茶の生地は素晴らしい光沢をもち、ドールが体の向きを変える度にキラキラと輝いた。襟元には、レースがふんだんにあしらわれ、胸元には小さなボタンが装飾として良い味を出している。ボトムスにはフリルのひらひらとした波がいいアクセントとなり、かっちりしすぎず、しかし美しいドールのフォルムを際立たせていた。
「まぁ、ドールくん!素敵だわ!」
「全くだ。家主、ほんとに裁縫が苦手なのか?」
二人は口々に服を褒めたたえた。しかし、そんな様子とは逆に、ドールの笑顔はどんどん消え、その顔には悲しみの表情が現れた。
「どうした?」
ルードゥスが声をかける。ドールは苦しそうに答えた。
「…僕は、貰ってばかりだね。僕は、主様に何もしてあげられない」
僕が人間だったら、主様に何でもしてあげられるのに。これが、ドールが人間になりたがっていた理由なのだと、二人は気づいた。あんなにも熱心に祈っていたのは、ドールなりの何かを主に返したかったからなのだ。
「…でも、僕は人間にはなないんだよね」
新しい服を強く握りながら、ドールは言った。本当は分かっていた。星に願いを言っても叶いっこないということも。それでも主に何かしたかった。祈りを辞めることはできなかった。
「…ごめんね、二人にもわがまま言っちゃって」
もう二人を困らせないから。そう言うと、ドールは定位置に座ったまま動かなくなった。
その日の夜、ルードゥスは意識を手放したドールに声をかけた。
「…なぁ、ドール。そのままでいいから聞けよ。俺にとって、お前は初めての友達なんだ。こんなに毎日話してて飽きないの、お前が初めてなんだよ。だからこそ、お前には幸せになってもらいたいと思ってる。恋をしたことがない俺が言うのもなんだが、お前の主への思いを完全に無くさなきゃならないなんてことはないと思う。それに、お前言ったよな、もう迷惑かけないって。いつお前が俺たちに迷惑をかけた?むしろもっと掛けてくれよ。それが、友達ってものなんだと思う」
ゆっくりとルードゥスの口から語られる言葉を、ドールは静かに聞いていた。彼は優しい。出会った時からだった。彼の言葉が心に優しく染み渡る。壊れてしまうのではないかと思うほどに苦しかった心が、少しずつ溶けていく。
明日、恐らく自分の体が完成する。言うなれば節目の日だ。主様への想いをもう一度考えるにはいい日だろうと思っていた。ルードゥスにとっても、アルドルにとっても、一番は自分にとっても、納得のいくこの気持ちの名前を見つけよう。今も尚、冷めないこの思いから、もう逃げない。ドールはルードゥスに心の中で感謝をしながら、ゆっくりと目を閉じた。
次の日、その瞬間は、思ったよりも早く訪れた。
(あぁ…主様はこんなお顔をしていたんだね…)
そっとドールの目に入っているガラスを拭いていく。するとどうだろうか。埃をかぶり、灰色のような色をしていたとは考えられないほど鮮やかなエメラルドが顔を出した。
『綺麗だ…』
主はあまりの美しさに声を漏らした。中心の黒目には、周りの緑色が反射し、まるで深海のような深みを出し、それは絵に描かれたかのような美しさだ。主はドールを両手で抱き直し、柔らかく微笑みかける。
『ドールくん、やっと終わったよ。随分待たせてごめんね』
腕、足、服、そして目、全てがようやく揃った。それらを身につけたドールはあの日、店で見つけた時とは比べ物にならないほどに綺麗になった。
『…あぁ、君は本当に綺麗だね。君は、僕をいつも幸せな気持ちにしてくれる……あ、』
幸せに、自分で零したその言葉に、主はハッとした。
『…そうか、幸福か』
近くにあった本を取り、ペラペラとめくっていく。幸福、幸せ、似たような言葉を呟きながら本を半分ほどめくり終えた時、ふと指が止まった。
『Lykke(リッケ)…』
本から視線を移し、もう一度ドールを見る。
『そうだ、これならピッタリだよ。ドールくん、君の名前は、今日からリッケだ』
Lykke。デンマーク語で幸福を表す言葉。このドールには、見た人を幸せに、関わった者を幸福にさせる力がある。主自身もまた、ドールに幸福を貰った一人であった。それまで色のなかった毎日の生活に、一筋の光が刺したかのような気持ちになった。やる気のなかった仕事にも精を出せるようになり、ドールという存在に依存をすることで、自分の存在意義が見いだせるようになった。それは、傍から見れば異常なものであるかもしれない。それでも、彼にとっては大切な生きる意味なのだ。それを与えてくれたのは他でもないドールだったのである。
『リッケ、君は幸福の人形だよ。みんなを幸せにしてくれる、そんな世界で一番素敵な人形なんだ』
さぁ、そんな人形にはとびきりの台を用意してあげなくちゃね。そういうとドールをいつものように座らせ、部屋を出ていった。
アルドルは主が去ったことを確認すると、ゆっくりドールに近づいた。
「…ドールくん?」
ドールは手を自分の顔の前まで持ち上げて、まじまじと見つめた。手を動かし、視線を下へ下へと動かす。自分の服に触れ、細やかな装飾に目を見張った。そして、足にグッと力を込めて立ち上がり、何度もアルドルと練習したように、右、左と足を前に出す。まだまだ覚束無いが、ドールは確かに一歩一歩自分の力で歩き出した。今までであれば、アルドルや練習を見ていたルードゥスが物にぶつからないように声掛けをしていたが、今では自分でしっかりと避けながら歩っている。途中、何度か転びそうになりながらも、ドールは自力で窓までたどり着いた。
「あぁ、いつも聞こえていた声は、君たちだったんだね」
白い窓枠に手をかけながら、外を自由に飛び回る小鳥達にそう告げた。ドールは後ろからの視線に気づき、振り返る。後ろにはアルドルが、壁からはルードゥスが、窓の傍に立つドールを静かに見つめていた。
「あ!君がアルドルだね!」
嬉しそうにアルドルのもとへ急ぐ。アルドルもドールに駆け寄り、手を握った。君って僕よりずっと小さいんだね、いたずらっ子のような笑顔でドールは言った。髪は金色で頭の上にお団子にされ、肌は雪のように白く、そんな体は桃色のふんわりとしたドレスで身を包んでいた。アルドルはうるさいわね!と怒り口調で言ったが、その表情には喜びが溢れていた。
「えへへ。…あ、」
少し目線をあげると、そこには黙り込んだ一枚の絵が飾られていた。ブロンドの綺麗な髪を持った美しい女性の絵だ。その絵の女性は優しく微笑んでいるのに、どこか悲しい表情をしている。
「…ルードゥス、君だね」
初めてルードゥスと目が合う。彼の目は不安、恐怖に染まっていた。
「ルードゥス、やっと君を見ることができたよ。すごく、すっごく、綺麗だね」
「やめろよ、俺は、そんな褒められたものじゃない」
「どうしてそんなことを言うの?とっても優しい表情をしているんだね。心の優しい君にぴったりだ」
その言葉に、ルードゥスは驚いた。綺麗という言葉はただの容姿の話だと思っていたのに、まさか自分の性格的なところの事だとは夢にも思わなかったからだ。ドールを見ると、いつもの純粋な笑顔を浮かべている。
「…そうだな、お前はそういうやつだった」
ルードゥスはそれまでの硬い表情を柔らかくさせた。全くこの人形は、自分の長年のコンプレックスをいとも簡単に消してしまう。
「目が見えるようになってよかったな、ドール」
そうルードゥスがいつものように呼んだ時だ。ドールがふと黙り込んでしまった。
「どうした」
「ドールくん、どうしたの?」
ドールは主の言葉を思い出していた。
『君は幸福の人形だよ。みんなを幸せにしてくれる、そんな世界で一番素敵な人形なんだ』
「…リッケ、」
主の声がありありと思い出される。本を手に取り、何ページもめくり、探してくれた大切な言葉。それはドールがずっと欲しくて欲しくてたまらなかったもの、ずっと待ち望んでいたものだった。
「ルードゥス、アルドル。僕、もうドールじゃないよ」
二人の方を見ながら、ドールが微笑む。
「僕は、リッケだよ」
主様がつけて下さった名前、僕に与えてくださった名前、僕の大事な宝物。ドール、改めリッケは嬉しさで何度も自己紹介を繰り返した。自分の名前を愛おしいそうに反復するリッケに、ルードゥスとアルドルは優しく微笑む。そんな幸せな様子は、正にリッケという名前の意味そのものであるかのように思えた。
「リッケ、か…いい名前を貰ったじゃないか」
「うん。ドールくんにぴったりの名前だわ」
えへへ、と頬を赤らめるリッケ。なんだか体がくすぐったい。それでも、二人にいい名前だと言われたことが嬉しくて仕方なかった。僕はリッケ。僕はリッケだ。棚の上をぐるぐると回りながら名前を繰り返す。幸せの人形、主様に大切にされた人形、それが僕。自分に名前が付いたことが幸せだった。そんなリッケを落ち着かせるかのようにトン、トン、と部屋の外から足音が聞こえてくる。どうやら主が戻ってきたようだ。ドールは慌てて元の位置に戻り動きを止める。
『さぁ、とりあえずの台を持ってきたよ。今度、しっかりした台を拵えてあげるから、少し辛抱しておくれ』
木の台にリッケを座らせる。『リッケ』と優しく呼び、座らせたばかりの人形を再び自らの腕の中に収める。冷たいはずなのにどこか温かいリッケを主はいつも以上に優しく抱いた。そして優しく言った。
『リッケ、愛しているよ』
主の唇がリッケの頬に触れる。それは、リッケにとって初めての口付けだった。
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