恋
恋
『おはよう、ドールくん』
一夜空けた朝、ドールは主の一言で目を覚ました。目を覚ましたと言っても、目を開ける、閉じるなどの動作を行う訳ではなく、ただ意識がはっきりしたという方がこの場合は正しいかもしれないが。
『それじゃあドールくん、行ってくるね』
そういうと主はどこかへと出かけて行ってしまった。
「行ってらっしゃい、主様」
ドアが閉まったのを音で確認したドールは、静かに呟いた。そして動かないこの不自由な体をどうにか揺らし、主が帰ってくるまでの暇な時間をどう過ごそうか考え始めた。
「あー、暇だ…」
目も見えず、体も動かない。いくら考えても、これだけの不自由が揃ってしまえば、何も出来ない。家が出来たことは嬉しいことだが、この長い長い一人の時間は、ドールにとってちょっとした悩みの種になった。せめて話し相手でもいれば話は別なのだが。そんなことを考えていた正にその時だった。
「おい」
「わぁ!」
その声は主のものとはまるで違っていた。驚いたドールはバランスを崩し、背中から倒れ込んでしまった。
「おっと、大丈夫かい?」
「うん。君は誰?主様とは随分と声が違うけれど」
声をかけた者は驚いた。相手には自分が見えていないのだ。昨日、この家の主に大事そうに抱えられて入ってきたこのボロボロのドールは、自分に気がつくどころか視界に入れることさえしなかった。あろうことか、目の前で倒れたきり、はたまた主にその場所に置かれてから今の今まで、その場から自分で動くことさえままならないのだ。俺が見えていないのか。そう問いかけると相手は以外にもあっさりと答えた。
「うん。僕は目が見えないんだ」
だから君のことを教えて欲しい、そうドールは言った。目が見えないだなんて、そんな大事なことをいとも簡単に、躊躇いなんてなく言ってしまうドールの返答に相手は素直に応じる。
「俺はルードゥス。壁掛けの油絵だ」
声をかけてきたのは、この部屋の壁に掛けられた絵画であった。名前をルードゥスと言い、彼も同じく主が見初めて買ってきたものの一つであった。
「ルードゥスっていうの?素敵な名前だね」
「お前にはそう思うんだろうな」
どうやらルードゥスにとってこの名前は、あまりいい気がしないようだ。その証拠に、名前を褒めると話すトーンがひとつ落ちた。
「どうして?そんなに綺麗な名前なのに」
「ルードゥス、ラテン語で"楽しみ"って意味だ。俺にはそんな意味は似合わない。女なら違ったろうがな。それほど大層なものではないんだ、俺は」
俺は男なのに。消え入りそうなその声は確かにドールに届いたが、彼にはその言葉の意味が分からなった。
「オトコ?オンナ?ルードゥスは不思議な言葉を使うんだね」
その言葉にルードゥスは驚いた。お前、男女の違いを知らないのか?そう尋ねると、彼は当然のように、うん、と頷いた。ルードゥスは彼の無知さを心の中で笑い、そして反対にどこか羨ましさを覚えていた。また人形の彼が問いかけてくる。
「ねぇ、ルードゥス?その名前は誰につけて貰ったの?」
「この名前か?これはここの家主につけられたものだが」
そういうとドールはすぐさま食いてきた。
「主様が付けてくださったの!?じゃあ、じゃあさ、僕も名前をつけて頂けるのかな」
僕は名前をつけてもらったことがないんだ。そう明るく笑う目の前のボロ人形に、気に入らないながらにもしっかりと清潔さを維持されている絵は、あるはずのない心をそっと痛めた。
「ねぇルードゥス!僕は一体どんな名前になると思う?」
「…きっと、今のお前さんのように綺麗な名前だろうよ」
それから数週間、ドールは毎日のようにルードゥスと言葉を交わすようになった。主が部屋を訪れるのは、寝る前の数分程で、その時間は毎日のようにあったが、されど数分である。ドールがそれ以外の時間をルードゥスと過ごすのは自然な流れであり、それをルードゥスもまた当然のように受け入れていた。それまでまともに他人と話したことのなかったルードゥスにとって、ドールとの会話は新鮮であり、この時間が彼にとって楽しいものになるのに、そう時間はかからなかった。
そんなある日のこと、いつものようにドールが寝る前に訪れる主を待っていた時のことだ。一向に主の姿が現れず、ドールは不安な表情を浮かべていた。
「主様、どうしたんだろう…いつもならとっくに来る時間なのに…」
「家主にもなにか用があるんだろう。焦ることはない。もし今日来れなかったとしても、明日には来てくれるさ」
ドールの主に対する思いの強さは、僅か数週間もの間言葉を交わしただけのルードゥスにもよく分かっていた。彼はとにかく主を慕っているのだ。
「…さ、今日はもう寝てしまえ。家主のことなら心配することはないよ」
「…そうだね」
今日はもう休むよ、そう言ってドールが意識を手放そうとしたまさにその時だった。ガチャリとドアの開く音がして、主の足音が響く。ドールの鼓動は高鳴っていた。
『さぁ、ドールくん。新しい腕だよ』
主はそっとドールを持ち上げると、新しく作られた腕を見せた。遅くなってごめんね、これを作っていたんだ。そういうと、ドールの元の腕を丁寧に外し、そこに新しい腕を取り付けた。新しい腕は、以前の腕にあったひび割れや汚れなど一切無く、ツヤツヤとした肌触りの良い表面になっていた。しっかりハマったことを確認すると、彼は満足そうに微笑み、ドールの手を取って言った。
『ドールくん、これが握手だよ。ようやく君と手を繋ぐことができたね。なぜだろう、君は人形で笑うはずなんてないのに、なぜか今の君はにっこりと笑っているように見えるよ。僕の思い過ごしかもしれないが、この腕を君は喜んでくれているのかな。そうだったら僕は幸せだよ』
その後も、眠るまでの間、主はドールに話しかけ続けた。何度も何度も手を繋ぎ、自分のよりも何倍も小さな手のひらに自分の指先をちょんと乗せる。冷たくもどこか暖かい手に自分の体温を流れ込ませる。
『君を見ていると、僕の心まで温かくなる。本当に不思議な人形だね』
僕のこの熱も、君に届けばいい、どうか君が二度と寒い思いをしませんように。そう心の中で願いながら、彼はドールから手を離した。
『おやすみ、ドールくん。いい夢を見るんだよ』
そう言い残し、彼は部屋を後にした。電気は消され、真っ暗になった室内には、カーテンの隙間から漏れ出る月の光が柔らかく広がっている。
「ドール、よかったな」
ルードゥスは声をかけた。しかしどうしたことだろう。いつもなら直ぐに返事をするはずのドールからは、一言も言葉が聞こえてこない。
「おい、どうした」
心配になり問いかける。具合でも悪いのか、そう聞こうとしたその時、ルードゥスは目を見張った。今までピクリとも動かなかったドールの腕がゆっくり、しかし確かに動き出したからだ。その様子は月明かりに照らされ、まるで舞台の上で舞う踊り手かのように優雅にその情景を際立たせた。動いた自分の腕を見えない目で追うその横顔は実に美しい。
「ルードゥス」
ようやくドールは口を開いた。
「見て、見てよルードゥス。腕が、動いている、動いているよ!」
たとえ目が見えていなくても、自分の意志で動かせている感覚があるのだろう。上に下に、右に、左に、両方の腕を順番に動かし、その度に声を上げた。
「ルードゥス!見えるかい?見えない僕の代わりによく見て欲しいんだ!どうだい、素敵な腕だろう?主様が僕のために作って下さったんだ!」
「あぁ、よく見えているよ。お前の綺麗な顔にしっくりくる、とても素敵な腕じゃないか。家主に感謝するんだな」
「もちろんだよ!ねぇ、ルードゥス?主様が僕に触れる時、どのように触ってくれたかわかるかい?あの方は本当に優しく触れてくれるんだ。ほらご覧よ。この腕にも主様の優しさが溢れていると思わないかい?」
「あぁ、そうだな」
「…」
「どうした?急に黙り込むじゃないか」
ドールは自分の腕を愛でるように撫でながら、ゆっくり息を吐いた。そしてゆっくりと手を自分の胸元に当て、再びルードゥスに問いかけた。
「ルードゥス、この気持ちはなんて言うの」
「気持ちだって?」
「うん。腕を貰って、これまで感じることのなかった主様の熱を初めて知ったんだ。温かくて優しくて、指の先は少し冷たかったりして…。ここ、この辺がきゅーって締め付けられるように苦しくなって、体全体がおかしくなってしまった様に感じるんだ」
胸元に手を置きながらドールは言った。無理やり押し出すかのように繋がれたドールの言葉に、ルードゥスは驚きが隠せなかった。もしもドールの目が見えていたら、きっとこの気持ちは悟られていただろう。だっておかしいではないか。本来、ドールや油絵などの無機物が感情を持つことなどあるはずがないのだから。人間なら誰しも当たり前に持った喜怒哀楽などといった感情は、彼らにとってはあるはずの無いものであることに加えて、あってはならないものでもあるのだ。それは、無機物である当人が一番よく分かっているはずであった。
「お前、感情を持っているとでも言うのか」
「感情?感情って、こんなふうにここが苦しくなるものなの?」
「そんなこと知るか」
どうやら、本人も無自覚のうちに感情が込み上げているようであった。そんなドールに、ルードゥスは少しだけうやらましさを覚える反面、感情をもった彼がこれからどうなっていくのかを思うと不安でもあった。しかし今、彼は誰から見てもとある感情の具体化そのままである。ルードゥスも言葉では聞いたことのある、あの感情。
「…きっとそれが、喜びってやつなんだよ」
「よろこび?」
「嬉しい時、そう、今のお前さんのように満ち足りた気持ちになった時にでる感情のことだ。俺たち無機物が感情を持つだなんて聞いたことない話だが、今のお前は間違いなく喜びを得ているんだ」
他にも、怒り、哀しみ、楽しみなど、人間には多くの感情があり、それらを対人関係の中で形成、蓄積していくのだとルードゥスは教えてくれた。無論、彼も感情を持ち合わせてなどはいなかったが。
「…よろこび、そっか」
だからこんなにも、心が温かくなるんだね。手を胸に当て、そっと思う。温かい。心臓がことり、ことりとゆっくり波打つ。穏やかで柔らかい、まるで主のようだとドールは思った。
「よろこびって、素敵だね。ここがポカポカするよ」
ドールはそう呟くと、流れるように夢に落ちていった。寝る前はあんなにも不安な顔をしていたというのに、そんな心配を一瞬で吹き消してしまうほどのプレゼントを主から貰ったことで、こんなにも穏やかな顔つきになるのだと、ルードゥスは思った。幸せそうな表情のドールをルードゥスは優しい目で見つめ、おやすみ、と声をかけた。
ドールが主の家に来て一ヶ月と少しが経った。すっかりここでの生活にも慣れ、新しい腕での生活は、ドールにとってまさに喜びそのものであった。毎日この部屋を訪れては優しく抱きしめてくれる主の温もりに触れ、その度にトクトクと心地よい音を奏でる主の胸に、ドールは胸を熱くした。主だけでなく、ルードゥスというルームメイトも、ドールにとってはかけがえのないもの大切なものだった。ルードゥスは賢明で、ドールの知らないことを沢山知っていた。彼との会話は、主の居ない退屈な時間を楽しいものに変えてくれる素晴らしい時であった。
そんな何気ない、しかし幸せな毎日を過ごしていたドールの元に、再び変化が訪れたのは、それから更に一週間ほどたった日のことある。ある日の午後、もう少しで三時を回ろうとしていた時のこと、突然主が昼間に部屋を訪れたとき、その手には見たこともないからくり時計が握られていた。高さ、三十センチ程はあるだろうか。その大きさに、ルードゥスも心の中で驚いた。ドールに時計は見えていなかったが、普段来るはずのないこの時間に主が来たことから、なにかいつもの違うことが起こるとは予想がつくようである。主が去ってから、ドールはすぐさまルードゥスに尋ねた。
「ルードゥス、何かあったの?」
「どうやら、主が何か持ってきたみたいだな。大きな家の形をしたからくり時計が置かれてる」
すると突然、三時を告げる音楽が時計から流れ始めた。家の扉からは音楽隊が次々と顔を出し、最後には美しいバレリーナ人形が踊りだした。ドールは音楽に聞き惚れ、ルードゥスは人形達の細やかな動きに釘付けとなった。やがて音楽は止み、人形の一人が時計から飛び降りた。
「こんにちは」
明るく、綺麗な高音であった。この部屋に来て初めて聞いたこの声の出処を、ドールは耳に意識を置いて探し始める。
「ここよ、こーこ」
先程まで遠くから聞こえていた声は、いつの間にやら自分の目の前に移動している。可愛らしい声を響かせながら、声の主はドールの手を取った。
「まぁ、なんて綺麗なドールなんでしょう!あなたとっても素敵よ!」
「え、あぁ、ありがとう」
「あなた、名前なんて言うの?ぜひお友達になりたいわ」
驚きつつも感謝を述べるドールに、相手は以外にも興味を持ったようである。そして、未だに目を合わせてくれない彼に焦れったさが募っていったのか、さらに疑問を問いかけてくる。
「ねぇ?どうして私の目を見てお話してくれないの?寂しいわ」
こんなにも速く、正に
「そいつは目が見えないんだ。その辺にしといてやれ」
それまで黙っていたルードゥスが、あまりのドールの混乱ぶりを見かねて声をかける。てっきり話せないと思っていた絵が喋りだしたことでアルドルは驚いたが、それよりもドールとの会話を邪魔されたことをよく思わないようであった。
「あら、ご親切にどうも。でもね絵画さん?私は今、お人形さんと話しているの。邪魔しないでくださる?」
どこかトゲのある言い方に、ルードゥスも顔を
「それに貴方、女性なのに何その話し方は。まるで男性みたい」
「…お前には関係ないだろう?」
抑えてはいるが、ルードゥスの逆鱗に触れた。そうアルドルはすぐに感じた。ドールは目が見えていないのでこれまで気にも止めることは無かったが、アルドルは違う。きちんと両目が見えているのだ。それは当然、彼の姿が見られているということで。
「…俺の性別には口出しをするな」
「そ、そんなにムキにならないでよ。」
アルドルはルードゥスを見た。木で形作られた豪勢な額縁の中には、油絵具で描かれた美しい人の姿が存在している。髪は綺麗なブロンドで、目鼻立ちが実に整った優美な顔を持つ女性の絵であった。
「…貴方は男なの?女なの?」
その質問にルードゥスは答えなかった。苦しそうに唇をかみ締め、アルドルから必死に視線を逸らしている。
「もう、聞くな」
アルドルはそれ以上問いただすことはせず、ドールへと視線を移し、名前を聞いた。
「僕は、まだ名前が無いんだ。主様やルードゥスにはドールって呼ばれてるよ」
「あら!そうなのね!それじゃあ私もドールくんと呼ぶわ。私はアルドル。よろしくね」
声の相手の正体は、アルドルという小さなバレリーナの人形であった。彼女の本体とも言えるアンティークなからくり時計は、有名な童話であるくるみ割り人形を元に作られたのだと言う。赤いレンガに彩られた家の扉から、音楽隊、バレリーナなどの人形達が回り出てくるこの時計は、細部まで繊細に物語が表現されている。しかし、アルドルの話を黙って聞いていたルードゥスにはひとつの疑問があった。
(その話が本当なら、くるみ割り人形はどこにいるんだ…?)
物語の主人公とも言える、くるみ割り人形の姿がどこにも見えないのだ。まぁ、そんなこと自分には一切関係など無いのだが。そう思い、その疑問をルードゥスが口にすることは無かった。
「アルドル、素敵な名前だね」
「ありがとう!ここの家主様に付けていただいたのよ!」
「主様に?」
アルドルの言葉に、ドールは前のめりになって聞き返した。ルードゥスもアルドルも、なんて素敵な名前をいただいたのだろうとドールは思い、それと同時に、自分も彼らのように名前を付けてもらえる日のことを、改めて待ち望むのだった。
からくり時計と共にアルドルがやってきて、一週間が経ったある日のこと。いつもより遅い時間に訪れた主の手には、新しいそれが握られていた。
『さぁ、足ができたよ』
腕を貰った時同様、真新しい足を主が拵えたのだ。ドールの腰から元々の足を丁寧に外し、新しい足を取り付けていく。カチリと音がして、しっかりとハマったことを確認する。どうやらサイズもピッタリだったようだ。片手に持ち変えると足首を回し、足の向きを揃えていく。そして両手でしっかりと持ち上げ、そっと棚の上に両足を乗せた。バランスに注意しながら僅かなズレを調整していくと、ドールは二本足でスクっと立った。
『立った!あぁ、良かった、上手くいったね』
主は微笑み、ドールの右手を差し出すような形に曲げた。『お手をどうぞ?』そう言ってドールの右手を優しくとり、二人は目を合わせた。
『今までは座っていたから、僕の目線より大分下だったけれど、これでようやく目を合わせられるようになったね』
早く目を綺麗にしてあげたいな。きっと美しい色を持っているんだろうね。そうドールに話しかけ、頭を一撫ですると、主は部屋を後にした。
「…! ルードゥス!アルドル!見てみて!」
ドールは主が寝室へ移動したことを音で把握すると、即座に二人に声をかけた。真っ先に反応したのはアルドルだった。
「素敵よドールくん!家主様はとても器用なのね」
「そうでしょう!ねぇルードゥス見て!僕の新しい足だ!」
「あぁ、見えてるよ。よかったな、明日からは歩く練習か?」
「あぁ!そうだ!僕歩けるんだね!」
主様と同じように歩けるんだ。目を大きく見開き、ドールは感嘆の声を漏らした。歩けることが嬉しくて仕方ないのだろう。今日はもう遅いから休めとルードゥスが言うと、早く明日になるようにドールは直ぐにでも意識を手放そうと必死になっていた。必要も無いのに目を閉じて羊を数えるその姿に、ルードゥスのいつもの微笑みは無かった。
「…」
アルドルは、その様子に気づくも、特に仲良くなれたわけでもないただのルームメイトである彼に、その事を問い詰めることはしなかった。
「右、左、ゆっくりね」
次の日の朝早く、ドールはアルドルに手を引かれながら早速歩く練習が始まった。いくらしっかりした足とはいえ、やはり動かしてこなかった時間が長すぎたのか、始めのうちは立ち上がるのにも苦戦していたが、練習を繰り返すうちに自らの力で立ち上がれるようになった。そうともなれば、次は歩く練習である。右、左、と順番に足を前に出していき、その都度アルドルの手を頼りに進んでいく。目の見えないドールにとって、アルドルの手と声は、彼の目の代わりと言っても過言ではなかった。
そんな二人の様子をルードゥスは黙って見つめていた。手を取り、時に腕を組むような素振りをしながら練習を繰り返す二人が彼を視界に入れることは少なく、彼の心の中でふつふつと怒りに似た何かが渦巻いていた。
「ルードゥス、一人で何考えてるのよ」
アルドルが突然に声をかけた。それは一人で感情の変化に耐える彼にとって、気分のいい言葉ではなく、『なんでもない』と冷たく押し返すことしか出来なかった。自分への当てつけだろうか、どうもあの女は気に食わない。ドールもドールだ。会ったばかりのやつにあそこまでさせて。そこまで考えて、ルードゥスは自己嫌悪に陥った。ドールに当たっていても仕方がない。そう思いなおし、再び二人の練習風景に視線を移した。
「少し休みましょう。練習をしすぎても疲れるだけだもの」
「そうだね、ありがとうアルドル」
二人は座り込み、小さく息を吹いた。無機物に疲れという概念があるかはこの割愛しておくが、特にドールはなれない動きをしたせいか、吐く息の量が多い。
「大丈夫か、ドール」
ルードゥスが声をかける。ドールは優しく答えた。
「うん。心配ありがとうね」
いつもの笑顔を浮かべたドールに、ルードゥスの表情が少し和らぐ。その様子を見てか、アルドルは先程よりも大きなため息をひとつ着いた。
「アルドル、どうかしたの?」
それに気づいたドールが問いかける。なんでもないの、と返すも、明らかにこれまでと違うトーンに、流石のルードゥスも疑問が残った。ため息ばかりつかれてはたまらない、いいから話せ。随分とぶっきらぼうな言い方にはなってしまったが、彼なりの心配を込めての言葉に、アルドルは苦笑を漏らし、仕方なしに話し始めた。
「別に、二人を見ていたら羨ましくなっただけよ。そんなに経っていないとはいえ、私よりは二人の方がずっと長く一緒にいるんですもの。長い付き合いの人がいるって、やっぱりいいものじゃない?」
「アルドルには、長い付き合いのある人はいないの?」
ドールも問いかける。アルドルは、いる、と答えた後、一拍置いて、いた、の方が正しいと訂正した。それはつまり、かつてはいたが、今はもう居ないということだ。『前の家にいた時か』ルードゥスが再び尋ねる。アルドルはそれに頷き、またため息をひとつ吐いた。
「私にはね、恋してる人がいたの」
アルドルは答えた。予想もしていなかった答えに、思わずルードゥスは目を見開いた。
「同じ時計に付いていたもう一人の人形の、くるみ割り人形さん。私と彼は、恋人同士だったの」
アルドルの話によれば、二人は前の持ち主の元に買われていくずっと前から恋仲であったのだという。時計が時間を告げる度、いつも二人は手を取り合って踊っていた。夜中にはこっそりと時計から抜け出し、二人で綺麗な夜の街を眺め、また朝になれば時計に戻り再び時間を告げる。いつだって、二人は片時も離れることは無かった。
「毎日が幸せだったわ。隣にはいつも、あの人の優しい笑顔があって、あの人の隣で踊れることが誇らしかった…」
そこまで話し、アルドルの表情が暗い影がかかったように暗くなったのを、ルードゥスは見逃さなかった。少しの間を置いて、意を決したようにアルドルが理由を話始める。
「ある日、前の家主様が私たちの時計を落としてしまったの。別の所へ移そうとしたのね。その時に手を滑らせて、時計が床に落ちたの。彼は落ちた衝撃で取れてしまって、そのままどこかへ消えてしまった。家主様が何度も探してくださったけれど、とうとう彼は見つからなかったわ。私も夜に時計から出て探したけれど、彼の声が聞こえてくることも無かった…」
その後も、アルドルは諦めきれずに探し続けたが、これといった成果は無いまま終わることとなった。前の家主が、今の家主にこの時計を譲ることになったからだ。もう会えないかもしれない。二度と、あの優しい笑顔を見られないかもしれない。それはアルドルを絶望の底に押しやるには十分であった。しかし、それでもアルドルの想いが覚めることは無かったのだ。
「だからね、私は今でも彼を探しているの。信じていれば、きっといつかまた会えるわ。私はそう信じているの。きっと、ここの家主様はそんな私のことを知っていて、アルドルだなんて名前をつけたのね。アルドルは、ラテン語で情熱だもの」
再び笑顔を浮かべながらのアルドルの言葉に、ドールは大きく頷いた。そうだよ、きっと会える、頑張って、そんな純粋なドールのエールとは裏腹に、ルードゥスは素直に頷くことは出来なかった。その様子を、アルドルは視界の隅でしっかりと捉えていた。
「ドールくんて優しいのね」
その日の夜、ドールが寝たあとのことである。珍しく二人だけの時にアルドルの方からルードゥスに声をかけてきた。あまり話してこなかった相手だとはいえ、無視をするのも如何なものかと想い、素直に共感を零すルードゥスに、アルドルはこう続けた。
「ルードゥスって現実的よね。頑張ってって励ましてきたドールくんとは違って、貴方には分かっているんでしょう?私がもう二度と彼と会えないって」
「!」
思わずルードゥスの表情が引き攣る。アルドルはその様子を見て「やっぱり」とても言うようにため息をついた。
「分かってるわよ、そんなこと。でもね、恋ってそんな簡単じゃないの。会えなくなりました、はい終わりとはいかないのよ」
恋は盲目って言うでしょ?悲しんでいるような、そんな感情を隠すかのような、なんとも言えない表情を浮かべ、アルドルはルードゥスを見た。
「…でも、私だって言いすぎたわね。性別のことだって」
その言葉にルードゥスの体が強ばる。
「デリケートなことには、口を出すべきではなかったわね、反省したわ。詳しくは聞かないから、安心して」
「…あぁ、そうして貰えると助かる」
その後、沈黙が二人の間を流れていく。何か言葉を待つアルドルに、なんと話して良いか分からないルードゥス、やはりこの二人はあまり合わないらしい。しかし、最初の頃よりは互いの距離がずっと近づいたのも事実だ。
「…ふふっ」
「な、何がおかしい」
沈黙に耐えられなくなったアルドルが、返答に困るルードゥスを見て笑を零した。恥ずかしくなり、つい口調が荒くなる。
「ルードゥス、私、あなたを誤解してたみたいね。貴方、面白いわ」
「はぁ…?」
「ごめんなさいね、嫌な態度ばかりとって。ちょっと、意地を張ってしまったの」
アルドルの素直な謝罪を、ルードゥスは素直に受け取った。そして自分こそ、とこうつけ加えたのだ。
「…いや、俺の方こそ。ドールとばかり話すもんで、つまらん意地を張っていたらしい。悪かったな」
「うふふっ。私にドールくんを取られたと思ったんでしょ?」
「な!? 人が素直に言えば調子に乗って…!」
間違っていないのがまた腹立たしい、そうルードゥスは思った。嫉妬などという大それたものでないにしろ、初めてまともに話せる相手であったドールと直ぐに打ち解けたアルドルに、いい気がしなかったのも事実だ。極めつけは、絵画であることでその場から動くことが出来ないルードゥスとは違い、アルドルには足がある。つまりドールの歩く練習に付き合うことが出来るのだ。楽しそうに隣を歩く二人を見ていると、ルードゥスは疎外感を感じざるを得ず、これもまた、アルドルへのあたりの強さを増大させたのだった。
「貴方、意外とドールくんが好きなのね」
「どういう意味だ」
「うふふ、いいわ。これからはもうちょっと話してあげる。よろしくね、ルードゥス」
「おい待て、どうして俺がそんな上から目線に言われなくちゃならないんだ」
「はー、ドールくんもいるし、これからの生活も楽しくなりそうだわ」
「おい話を聞け」
初対面時から、二人の仲はどこかぎこちなく、無意識のうちに距離が生じていた。しかし今、ルードゥスはアルドルの過去に触れ、アルドルはルードゥスの優しさに触れた。そして今、二人は互いの目を見て話し、笑っている。その笑顔は見ていて嫌な気はしなかった。それと同時に、これまで感じることのなかった心地良さが、確実に二人の中で育まれていた。
そして二人がすっかり意識を手放したと勘違いしていたドールは、こっそりと二人の会話を聞きながら、アルドルの話していた
(…恋、か)
くるみ割り人形に恋をしていた、そう話したアルドルの声が何度も頭の中で繰り返される。
(恋って、なに…? 好きと何が違うの…?)
主のことを考え、ドールの心臓が、とくりとくりと波打つ。それは、これまで感じたことの無い鈍い痛みを伴っていた。
(主様に会いたいな…)
あの柔らかく、温かな手が恋しい。なんだか今夜は眠れそうにない。今は一旦恋のことなど忘れ、ただひたすらに主のことを想い、静かに目を閉じた。
胸には相変わらず、鈍い痛みを抱えながら。
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