I am a Doll.

@irodorinihana

桜の花びらが舞い散る季節。石畳には薄桃色の花びらが絨毯を作り、それらは一度風が吹けば吹雪のように道行く人々の薄手のコートを白く染めていた。そんな都内某所にひっそりと建つアンティークショップ。そこにはもう何年もの間、売り物として置かれている一体のドールがあった。顔はこの上なく美しく、丸みを帯びた輪郭に柔らかいと錯覚してしまうほどに艶々とした唇を持つ。髪は焦げ茶に少し赤みがかった色のメッシュが入っており、より高貴な様子を掻き立てている。しかし、こんなにも優美で、質の良いこのドールも、この店では売れ残りの存在であった。古い人形であることに加え、保存状態も良くなかった為か、服も汚れ、ボディはお世辞にも綺麗といえる物ではなかった。歳を越す事にボロボロになっていったボディは、人の手に触れても温かみを感じることが出来ず、寧ろ人の体温を奪ってゆくものとなっていた。

 このアンティークショップに売られてきた当初こそ、顔の整ったこのドールはよくお客さんの目に止まり、多くのお客さんの手に取られ、何度も綺麗だと賞賛された。しかしこの身体を見た刹那、数秒前までの賞賛の声は止み、再び棚に戻されていくのだった。棚には埃が降り、それはドールの目から光を奪っていった。日に日に見えなくなっていく両目に、ドールは何もすることが出来ず、ただひたすらに、自分を抱いてくれる主を待つ他なかった。感情を持たないドールにとって誰かに買われ、大事にされることは一生の夢であり、またそうしてくれる主を待つことで、ドールの命は繋がれていたのだ。


 カランカラン。今週何度目か分からない店のドアに付いたベルが鳴り響いた。入って来たのは平均よりも高い身長をもつ一人の男性だった。その人は店長である老人に軽く会釈をすると、店の中をゆっくりと見て回った。こういったアンティーク品に興味があるのか、品々に向けられた目は真剣そのものである。からくり人形、オルゴール、ランプシェードにフランス人形。職人によって作られた品、一つ一つをじっくりと眺め、手に取り、質の高さに驚いていた。

『お気に召すものはありましたか』

店長が声をかける。男性は突然の問いに驚き、いえ、と消え入りそうな声で答えた。その後も店内を歩き回り、遂に、人形の棚の前までやってきた。

『…これは、』

  その足はある一体のドールの前でピタリと止まった。男性は目を見開き、言葉を零すように店長へと尋ねた。

『店長、この人形だけど…』

『あぁ、もう随分売れ残ってるんです。顔だけは綺麗なんだがねぇ…』

『そうなんですか。これは、なんて言う人形なんです?』

『それはビスクドールと言うんです。十九世紀にヨーロッパのブルジョア階級の貴婦人・令嬢たちの間で流行した人形で。今では自分で目や髪なんかをリメイクする人もいらっしゃるんですよ』

『へぇ…』

 ここで初めて、男性はこのドールに触れた。体を壊してしまわないようそっと持ち上げる。その手つきは、これまでの客と比べて誰よりも優しかった。ボロボロの体をなぞるように優しく撫で、男性は微笑んだ。何人もの客の視線を逸らせてきたこの体を、男性はまるで愛おしいとでも言うように手を滑らせる。壊れかけのこの体では、この人の体温を感じることはできないけれど、微かに感じる人の手の感触に、ドールの胸は高鳴った。店長はそんな様子に気づき、微笑みかけ、もう一度『お気に召すものはありましたか』そう問いた。

 

ガチャリ、と初めて聞く扉のことが聞こえた。優しい花や木の香りが心地よく届く。

『ようこそ、我が家へ』

 柔らかな男性の声が、ドールの耳に響いた。

『今日から、ここが君のお家だよ、ドールくん』

 低くて柔らかな声が、ドールにそう告げた。その人は、タダ同然で譲ろうとした店長の提案を丁重に断り、それ相応の額でドールを買い取ってくれたのだ。

『とりあえず、ここに座ってくれるかな、いつかちゃんと台を拵えてあげるからな』

 そう言ってドールを棚にちょこんと座らせる。あぁ、目が悪いのがもどかしい。もし綺麗な目があれば、この人の顔をハッキリと見られるのに。せっかくこの人のそばに置いてもらえるというのに、僕ってなんて強欲な人形なんだろう。そう、ドールは思っていた。

『美しい、本当に綺麗だね、君は』

 その人は、何度も人形を撫でては『綺麗だ』と口々に言った。これまでにも、幾度となくかけられてきたその言葉が、こんなにも優しく響いたのは初めてであった。

『腕も、足も、手も、この綺麗な目も、僕がしっかり治してやるからな』

 そういって頭をもう一撫ですると、足音はだんだんと小さくなっていった。


一人残されたドールは、体全体で、これまでとは全く違う空気を味わっていた。目は見えなくても、カーテンから差し込む太陽の光や、座らせられた木のタンスから香る木材の香りなど、聴覚、嗅覚、頬をなぞる触覚を使い、新たな家となるこの場所を知ろうとした。窓が開いているのだろうか、外からは鳥のさえずりが聞こえ、耳に優しく語りかける。部屋中から香る心地よい木の香りは、部屋の中に木の素材で作られたものが多く存在することが伺える。これからここが家になるのだと思うと、ドールは胸が高鳴るのを抑えられなかった。

「…主様、」

 誰もいなくなった部屋に、ドールの初めての言葉が響いた。それは、ドールが口に出したくて仕方のなかった言葉であった。主様。主様、あるじ様、主さま。何度も何度も、ドールは口にした。この声は決して主であるあの男性には届かないのだろう。それでも、いまこんなにもドールの胸は高まり、あるはずのない心は温もりで溢れている。このどうにも言い表せない気持ちを主様に伝えたくてたまらないのだ。それから主様がおやすみの挨拶をしに来てくれるまでの数時間、ドールは今日の出来事を思い返していた。初めて主様に抱いて貰った時の温もり、優しい声、撫でる手の動き、店長への言葉など、一つ一つ、忘れる訳にはいかないとばかりに、隅から隅まで思い出していた。そして、主が部屋を訪れた瞬間、興奮で全てを忘れ去ってしまったのだった。主様はドールの頭を優しく撫で、『おやすみ、いい夢を』と呟き、ドールをそっと抱いた。主の胸に顔を当てると、そこにはトクトクと正確なリズムで刻まれた心音を確かに聴いた。心臓など、このドールにはあるはずも無い。しかしそれでも、彼の心音はドールに移り、ドールの体もまたトクトクとリズムを奏でるのだった。


 主様が部屋を出ていっても、ドールの心臓は鳴り止まなかった。これまで感じたことの無い心地良さが、ドールには感じられていた。しかし、これが人間でいう『感情』なのだと気づくのには、もう少し時間が必要なようである。


 そして、そんな興奮でなかなか寝着けそうにない様子の彼を一枚の油絵が見ていることもまた、気づくことは無かったのだ。

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