甘く儚い
野原想
甘く儚い
君は言った。
「触っていい?」
僕は思った。
『ああ、おでこが熱い』
「いいよ」
気分だけでも、と向日葵の写真が飾られている真っ白な病室で君と僕はおでこをごつんと合わせていた。息のかかる距離で触って良いかと聞いた君はゆっくりと僕のお腹に手を伸ばした。綺麗に縫われた手術の後をつぅーとなぞると「そっか、」と呟いた。おでこをつけたまま、君の表情は分からなかった。日が落ちるまでずっとそうして、日が落ちた後で、一度僕の手を握った。
君は言った。
「痛い?」
僕は思った。
『今日は、ちょっと寒い』
「痛くないよ」
扉の向こう、廊下の奥の方から看護師さんの声が聞こえる。他の患者とたわいも無い話をしてるようだ。意識を、そこに逃がしてしまいそうになりながら君の頬にピントを合わせた。
そんな君は傷の増えた僕のお腹をまた、つつぅ、と繰り返しなぞった。しばらくそうした後で僕の肩に手を置いてゆったりと僕にもたれかかってきた。日が落ちるまでずっとそうして、日が落ちた後で、一度僕の頬を撫でた。
君は言った。
「怖い?」
僕は思った。
『なんだか、柑橘の匂いがする』
「怖くないよ」
ただのオレンジ色じゃない、オレンジ色のガーベラの花びらみたいな光が窓から差し込んで君の横顔を綺麗に染めた。その肌に触れようと手を伸ばしたけど君が僕のそれに視線を落としたからゆっくりと自分のもう一方の手の中に隠してしまった。少し冷えた指先で僕の首を何度も確かめるように触った。日が落ちるまでずっとそうして、日が落ちた後で、一度僕の髪に触れた。
君は言った。
「消えない?」
僕は思った。
『ちょっとだけ、眠いかも』
「消えないよ」
窓の外から子供達のはしゃぐ声が聞こえて君の口元が緩んだ。いつもはベッドの上で向かい合っている君が今日は僕の左隣に座ってペタリと肩を寄せ、数度瞬きをした。肺の中に空気が含まれていくのが分かるように大袈裟に息をしてみせた君が「手、」というからその言葉に導かれるまま従順に僕の生ぬるい手を差し出す。その手を自分の胸の前まで引き寄せて僕の脈を図るように手首を柔らかく抑えた。日が落ちるまでずっとそうして、日が落ちた後で、一度僕の唇をかすめた。
君は言った。
「死なないで」
僕は思った。
『口の中が、苦くて甘くて痛い』
「死ぬよ」
僕が言い終わる前にベッドの上に蹲った君。僕が背中に手を乗せるとバッと起き上がってぐらつくほどの勢いで抱きついて来た。十秒、十五秒、二十秒とそうして数日前と同じような冷えた手で僕の目をふわっと覆った。そこから透ける真っ赤な光だけを、救われたいと望む事もないまま感じた。僕の肩に顔を埋めてぐりぐりと首を揺らしながら小さく空気を吸い込んだ君。日が落ちるまでずっとそうして、日が落ちてからも、しばらくそうしていた。
君は言った。
「もう、触れないじゃん」
僕は思った。
『ごめんね』
甘く儚い 野原想 @soragatogitai
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