第12話 いまです

「送り狼さん!」


 幸子が名前を呼ぶのと、白い巨体が弾丸の勢いで蛇女に飛びかかるのとは同時だった。


 一緒くたになぎ倒された机や椅子が、おもちゃのようなあっけなさで壁や床に叩きつけられる。


 暴力じみた大音が教室を揺らす。


 とっさに幸子たちが身をすくめたその一瞬で、送り狼は前足の下に獲物を捕らえていた。


 横倒しになる教卓の上、仰向けになった蛇女たちはなおも身体を絡ませあったままだった。容赦なく送り狼の前足が喉もとを圧するも、だらしなく舌を垂らした彼女たちに焦るようすはない。片方はきゃらきゃらと楽しげに笑い、片方は山谷の声で高らかに言う。


『へえ、すごいねぇ! 送り狼って百鬼だとたしか前列のほうだったと思うけど、それでもこれだけの力があるんだ。烏合の王を喰らってなかったら、ひとたまりもなかったよ』


 突然、送り狼はそこから飛び退いた。


 山谷の声でしゃべっていた蛇女の頭が、人形の首を回すように半回転する。


 首もとまで覆う黒髪が縦に裂けて、そこから大きなくちばしがずるりと現れた。赤黒い粘液をぬらぬらと光らせて、したたる糸を引く。

 『烏合の王』の登場に、送り狼が唸り声をあげた。足はいまにも飛びかかろうと地面を踏みしめるのに、蹴り出せないでいる——滲み出る葛藤から、彼らの『百鬼』としての格がうかがえた。


(送り狼さん、怯えてる……。蛇よりカラスのほうを怖がってるみたいだから、やっぱりやっくんの言ってたとおりもとの蛇の鬼自体はそれほど強くなかったのかもしれない)


 蛇女たちの背中から真っ黒な翼が、くちばしと同じように赤黒い糸を光らせてそれぞれ一翼ずつ生える。


 呼吸も忘れて見入る幸子たちの前で、仕上げに頭頂部から黒いうさ耳が生えた。


「は、うさ耳⁉︎」


 思わずといったように美世が叫んだ。


「蛇でカラスでうさぎはもはや属性盛りすぎてキメラかよってかんじなんだけど!」


 はじめて怪異に遭遇した恐怖よりも、つっこみたい衝動のほうが勝ったらしい。美世のくちびるはピンクのグロスがすっかりはげて青ざめていたが、舌はよどみなかった。


『ご指摘はもっともだよ。ぼくだって思うところはあるけど、機能性を重視して見た目がやぼったくなるのはままあることじゃない』

「如月、うかつに悪魔と会話をするな。そそのかされるぞ。それからゆっこ、助けてくれてありがとう。思っていたより数段に手強そうだが、俺も万全を尽くそう。共に手を取り合って憎き悪魔を滅ぼ、ぎゃあああ!」


 送り狼が現れたときにゆるんだ中村の拘束が、再び早乙女に襲いかかった。


「なにするんだ! 俺は君を助けようと」

「悪い、早乙女! でもどうしても、だめなんだ! だって俺から遠ざけたら、そいつ今度はあの子のところにいっちゃうわけだろ」


(ああ、やっぱり……)


 そうだろうと考えていたわけではなかった。それでも、中村の言葉を聞いて幸子は納得した。


「はっ? なにあんた、誰が呪いをかけたか知ってたっての⁉︎」

「なんだって? じゃあ白い動物の毛も」

「知らない、わからない。そんなのわかるわけがない。白い毛ってだけなら、誰にでも簡単に手に入るし、この学校には俺を好きな子だってたくさんいるし」


 見当をつけていたわけでも、根拠があるわけでもない。けれど不意に、確信を持って見つけだす——


 それはたとえば、幼いころ夜空に見つけたUFOを突然思い出したり、知らず禁足地に立ち入っていたことにふと気づいたり。中村の言うところの『因縁』は、ときに理屈を飛ばして落雷のように真実を突きつける。


「……そうだ、なにも倒さなくたって……があの子の想いなら、話をすればわかってくれるはずじゃ」

「待って中村くん! 鬼と人間じゃ、話し合いは——」


 幸子の制止は間に合わなかった。

 早乙女をひょいと放って、中村は蛇女のところに駆けていく。


「送り狼さん!」


 中村を守るよう送り狼にすがるも、彼は幸子の声に無反応だった。


 鬼と人の理は交わらない。幸子を守りたくてそばにいる送り狼には、当然中村を守る理由はないのだ。


『ジンヤクン』


 カラスの顔になった女のとなり、まだ人間の顔を保っているほうが、はじめて笑い声以外の声を出した。どことなく桜庭に似ているが、機械を通したように無感情で甲高い。


「ねえ、落ち着いてゆっくり話をしよう」

『ジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクン』

「君の気持ちに、今まで気づかなくてごめん。気づかないふりをしていてごめん。ずっと妹みたいに思ってて、家族同然にふるまえる君を、きっと無意識のうちに特別扱いしてたんだ」

『ジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクンジンヤクン』


 嬉しそうに笑い顔になる女の、耳まで裂けた口が、どんどんどんどん開いていく。まるでパペット人形を限界まで口開かせたように、頭と首の境あたりの皮膚を何重にもひだにさせて顔の上半分を持ち上げる。


「中村くん!」

「おい中村逃げろ!」


 幸子と美世の声は届かない。

 早乙女が起き上がって聖水のペットボトルを取るが、キャップに手をかけるよりも蛇女が中村に食らいかかるほうが早かった。


 思わず幸子は目をつむる。

 そのときまぶたの暗闇の向こうから、

 待ち望んでいた声がした。


「……どうでしょう。望んだタイミングでしたか?」


 おそるおそる片目をひらけば、まず桜庭と中村のキスシーンが飛びこむ。


 その奥、開けられたドアのところに立つ人影を、ゆっくり瞬きをして見つめる。グレーのズボン、袖のまくられた白いシャツ、眼鏡の奥はこんなときでも平常通りのまなざしだ。


(ああっ、ひやひやした! もっと早く来てくださいよ、かなどめさん!)


「——バッチリです!!!」

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