第11話 蛇女

 桜庭とでくわしたその翌日、ついに幸子の右手首まで乳白色のうろこが到達した。


 手首に貼られた大判のばんそうこうは、当然美世や早乙女を暗くさせた。だが幸子本人にはそれほど深刻そうなようすはなく、むしろ顔色はここ数日で一番良いくらいだった。


 恐怖を忘れたわけではない。毎晩シャワーを浴びるときは、背中を覆いつくすうろこがその日どこまで広がったか、目を背けたい気持ちとは裏腹に確認せずにはいられなかった。ふと気づくと全身がうろこに覆われている——そんな悪夢を見ることも一度や二度ではない。今朝もそれで飛び起きて、見おろした自分の手にうろこが侵食していると気づいたときは、悲鳴すらあげそうになった。


 それでも、空元気ではなく上向きの気持ちでいられるのにはわけがある。


 昨日のお清めの際、いよいよかなどめ堂の主人に言われたのだ。


「学校は罠として完全な状態になりました。そして明日は満月。……日が暮れるほどに、鬼の道と人の道との境が曖昧になります」


 授業で朗読をするときと変わらない、余計な感情の表れない落ちついた口調だった。

 だが目つきはぞっとするほど鋭く、機が熟すのを見定めようとする捕食者を思わせた。


「おまえを呪った蛇鬼に、ようやく遭えそうです」


(かなどめさんがああ言うんだから、たぶん今日こそ山谷くんと決着をつけられる)


 放課後の中村は、いつも門の閉まるギリギリまで教室に残って友人たちと話している。


 校内にいるあいだは、いつ蛇鬼に襲われてもおかしくない。彼が門を出るまで、幸子、美世、早乙女はボディーガードのようにつかず離れずの距離を置いて見張りをしていた。


「前から思ってたけど、なんの距離なのそれ。どうせならこっちきてみんなで話そうよ」

「早乙女が、あんたの半径三メートル以内まで近づくと消し炭になるらしい」

「なにそれウケんね」


 連日そうしていれば中村から声をかけられることもあったが、そのたび早乙女が消え入りそうな声で「ムリ、コワイ」と鳴くので、彼の輪に幸子たちが加わることはなかった。


 だからと言って中村のほうからわざわざ幸子たちの輪にやってくることもなく、この放課後も三人は教室中央の賑やかさを避けるようにして窓ぎわの幸子の席を囲んでいた。


「つかさ、いいかげんそろそろヤバくね?」


 頬杖をつく美世がつぶやく。


 窓辺は夕陽ですっかり赤く染まっていて、廊下側の影が教室の半分を浸してしまった。


 無意識に、幸子は乾いたのどを鳴らしていた。心臓の表面がかすかに粟立つ。それでいて下半身は影に捕えられてしまったように重たい。こういうとき必ず見かけたはずのカラスの姿がどこにもない。それどころか鳴き声一つ聞こえないことを、違和感として覚える。


「そうだね……そろそろ……」

「ね。京センセー、まだなんも言ってこないけど地味に圧かけてきてっし。申請書」

「あっ」


 先端をきれいなUの字に整えられた爪が、コツコツと机の上の書類を示す。


「こんだけ毎日話し合ってもうまくまとまらないんだから、やっぱセンセーに協力してもらうべきじゃね? いつまでも新聞張り出さないでいたら中村にも怪しまれるでしょ」


 一気に現実に引き戻された気分だった。何度も消しゴムをかけられてしわの寄った申請書の『活動目的』はいまだ空欄だ。京に頼れないぶん、幸子がいちばん目を背けたいのはうろこよりむしろこちらかもしれなかった。


「なに、美世ちゃん俺のこと呼んだ?」

「うわ中村。呼んでねー」


 ぱっと幸子が書類を裏返し、そんな彼女の手もとを隠すように身を乗り出して美世が応対する。


「あたしら大事なハナシしてるとこなの。気が散るから向こう行ってよ、しっ、しっ」

「あいかわらず容赦ないなー。いいじゃん、たまには俺のことも仲間に入れ、」


 中村の言葉は最後まで続かなかった。

 唐突に彼の胸ぐらを掴んだ早乙女が、机に顔を叩きつける勢いで引っぱったのだ。とっさに手をついたことで上体を伏せるだけで済んだその背後めがけ、早乙女はかたわらにあったペットボトルの水を思いきりぶちまけた。


 アルプスの天然水——ではなく聖水が、境界を作るように線状に床を濡らす。


 その向こうでは、中村に手を伸ばしていた取り巻きの女子二人が、戸惑ったように顔を見合わせていた。


「え、なに、水かかるとこだったんだけ、」

「陽の気を纏う者よ。君はいま、俺たち以外の誰かと共にいたか?」


 取り巻きの非難を無視して問うた早乙女に、中村は決して背後を見ないまま、徐々に白くなっていくくちびるで小さく答えた。


「い、ない……」


 そのとたん女二人はニタッと笑った。

 口は蛇のように耳まで裂けて、血で塗りつぶしたように真っ赤な咥内が見せつけられる。見ひらかれて丸くなった目は光を閉ざしたように黒々として、白目の一切がない。こめかみや頬をまだらに埋める白は、幸子の身体を蝕んでいるものと同じ、蛇のうろこだ。


「きゃあああ!」

「ついに姿を現したな、蛇の悪魔!」


 悲鳴をあげる女子たちをかばいながら、早乙女は机に乗り上げる。首からさげたロザリオをつきつけて威圧するも、二匹の蛇女はニタニタと笑みを浮かべたまま、互いの身体に手足を絡みつかせて遊んでいるようだった。


『あーあ、幸子ちゃんの前では、かっこいい人間の姿でいたかったのに』


 蛇女の片割れが、覚えのある声で言った。


『なんだっけ、『白蛇の縁結び』? 余計な設定をなすりつけられたせいで、こんな見た目で出てきちゃうことになっちゃった』

「や、山谷、くん……?」

『もちろん、ぼくだよ。だってぼくを呼び出したくてこんなことしたんでしょ? 本当はもうちょっと隠れて力をつけていたかったんだけど、こうなったらもう、しかたないかな』


 とりあえずこの男、殺すね。


 絡まりあって一匹の蛇のようになった女は、水たまりでも飛び越えるかのような軽快さで聖水の境界を踏み越えた。


「なっ、クソ!」


 舌打ちをした早乙女が、手にしていたロザリオのネックレスを中村の首にかける。


 頭を抱えて震えている中村の、無防備に晒されるうなじまで数ミリ——いまにも触れようとした蛇女の指先が、ぴたりと止まる。


 真っ黒な目が、ここではじめて早乙女に向けられた。


『へえ? なに、きみ』

「ただのしがないエクソシスト、さ……」

「え、エクソシスト……!」


 全力の決め台詞に意外なほど食いついたのは中村だった。


 恐怖から一転、羨望のまなざしで早乙女を見上げる。


「陽の気を纏う者よ、『白い動物の毛』だ。ロザリオの加護も、そう長くは保たないだろう。死ぬ気で考えろ」

「悪い、それはもう、いくら考えても絶対にでてこない。無理だ」

「びっくりするほど潔く諦めるな! ……しかたない、それなら俺が力の限りで祓う。完全に消滅させるのは厳しいが、ひとまず君から退けることはできるだろう」

「待って、待った! それもだめだ! お願いだから祓わないでくれ、早乙女!」

「はあ⁉︎」


 カバンを開いて道具を取り出そうとする早乙女を、中村がはがいじめにした。紙のようにぺらぺらとした身体つきの早乙女は、それだけでびくとも動けなくなる。


『え、なに内輪揉め?』


 蛇女の顔二つから、先端の割れた舌がそれぞれ垂れる。


『まあいいけど。じゃ、せっかく動かないでいるみたいだし、エクソシストくんから』


 伸びていく二枚の舌は、まるでおのおの自我を持った蛇のように、獰猛な衝動で獲物に食らいかかる。

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