第2話 蛇の恋情

 信じがたいものならば、町にUFOの落ちた春休みの日からいくつも目の当たりにしてきた。まだら模様の空、アスファルトを覆う桜の花びら、送り狼、青い鶯、烏の王……


 いいかげん慣れたつもりでいた幸子だったが、いま手鏡に映りこむ、背後で京が手にするもう一枚の鏡ごしにあらわになった光景はとりわけ現実味のないものに感じられた。


 ただでさえ見慣れないみずからのうなじに混じる、爬虫類のぬらぬらとした白い光沢。


 息をするごとに、無数のうろこの上を粘着質な艶めきが、さざなみのようにいったりきたりをくり返す。


 その波がふとした瞬間、肌色の部分にまで喰らいついて、そこから今にもぷつぷつと音を立てて新たなうろこが芽生えるおぞましい想像がいやおうなく脳裡を支配していく。


(あと一ヶ月で……)


 鬼門の言葉通りなら、恐怖心が駆り立てる妄想などではなく実際に起こり得ることだ。


 幸子は震える手で、なんとか鏡を膝に伏せることができた。とてもそれ以上は正気で見ていられる自信がなかった。


「ど、どうすればいいの」


 塩で清めても効果はなかった。

 山谷に直接、呪いを解いてもらうよう説得するのは——鬼隠しで鬼と人間の理がいかに異なるものか身をもって知ったために、その無謀さを今度こそしっかりと理解していた。


 呪いの効果、そして呪いをかけたものの正体があきらかになれば解き方がわかると、鬼門はたしかそう言っていたはずだ。すがるように幸子が見つめると、彼は浮かぶ目玉をふわふわと回転させながら『そーだなァ』とつぶやいた。間延びした緊張感のない声だ。


『ンー、どうすンのがいいかな……つうか動機がマズいんだよな……おめぇがなんか粗相をしたとかで恨まれての呪いなら、誠意を持って謝罪すりゃいいだけの話だったわけだけど』


 恋情ってのはサ、と。


 ため息まじりに、うんざりと吐き捨てられる。


 しかも鬼の、とりわけ蛇じゃあなァ——


『フツーはよォ、んな強ェ呪いかけられるほどの〝蛇〟の鬼ってのは何百年って何月をかけて力をつけてきた奴で、それなりのプライドや自覚ってモンがあンだよ。人間どもからも神格化されて、そういう信仰がさらに奴らをそれらしくする。ホラ、イモリ神もヤモリ神も聞かねェけど、蛇神ってのはよく聞くだろ』


 蛇の鬼は大抵が〝祟る〟もので、基本的に原因は祟られた人間のほうにある。


 蛇の呪いを解くとなれば、その怒りをいかに鎮めるか……これに関してはそう難しいものではなく、誠実な謝罪と供物を捧げれば、案外あっさり許してくれるものだという。


『だっつのに、惚れた女ァ自分のモンにするために呪いかけるなんざ、風格がねェよな』


 テレビの前に寝そべりながら、せんべい片手に『最近の若いもんは』と愚痴るような調子だった。ついでにおしりも掻いていそうだ。


『呪いの本当の目的は、おめぇを蛇にすることじゃない。それに怯えたおめぇが、自分からそいつンとこを選ぶよう仕向けてんだよ』


 蛇になりたくないのなら、自分の気持ちを受け入れろ。それができないのなら、このまま蛇となって同じ鬼の世界で生きていけ——


 選択肢を与えたことで、山谷のほうは幸子の気持ちを尊重したつもりでいるのかもしれなかった。実際には選択の余地などないのだとしても、鬼に人間の理は理解できない。


『おめぇに選ばれたっつう満足感がほしいんだ。ったく、ガキだな。まァ実際、百鬼になって力をつけただけのごく新しい鬼なんだろ。俺様、百鬼に蛇の鬼なんて初耳だし』


(『百鬼』……)


 茫然として聞くばかりだった幸子が、はたと瞬きをする。


(たしか山谷くんも言っていた……クロちゃんが、百鬼を食べて成り上がったって)


「百鬼って、えっと、百鬼夜行とかの?」

『あァ、百鬼はなんつーか、あれだよ、この町の強い鬼ランキングトップ100みてぇな』


 少女の頭にあった『百鬼』は、なんとなくおどろおどろしかったイメージから、雑誌の見出しを飾りそうなポップな字体に変わる。


『ただ、ランクインするとバフがかかってな。……おめぇ、ゲームとかする? バフっつって伝わるか?』


 幸子は素直に首を横にふった。


『簡単に言やァ、めっちゃ強くなンだよ。町の外にいる同程度の実力の鬼より、倍くらいは違ってくンじゃねェかな。かわりに、百鬼でいるあいだはこの町から出られねェけど』

「そして、百鬼が好き勝手に暴れださないよう管理するのが鬼門の役目です。本業でしょう、もっと真面目に取り組んでください」


 組んだ腕を人差し指で叩きながら、京がぴしゃりと叱った。


『へいへい、わかってンよ。まっとうな儀式はなしあいが通じねェんじゃ、引きずりだしてビシッとお説教するしかねェだろうな。めんどいけど仕方ねェ』


 ギョロ、と鬼門の目玉が京に向けられる。


『いっちょひっ捕まえて灸をすえるか!』


 呼びかけられたのが幸子だったら「アイアイサー!」と敬礼したくなるほどの威勢のいいかけ声だったが、京は組んだ腕をほどかず冷静にたずねる。


「あちらは徹底して俺を避けているようですが。なにか誘き寄せられそうなものは」

『さァ。夜刀神やとのかみ八岐大蛇やまたのおろちみてェなンならともかく、んな無名の蛇鬼の弱点知ったこっちゃねェよ。おめぇ頭いいんだから考えろ』


(丸投げだ……)


 またもや京に迷惑をかけてしまう。そのことが申し訳なくて、うかがうように見上げたところでようやく彼の腕組みはほどかれた。


 伸ばされた手が幸子の頭に乗る。

 撫でられることはなく、わずかに体重をかけられたままじっと動かされなかったが、手のひらから伝わったぬくもりは強張ったままでいた彼女の肩からそっと力を抜かせた。


「……蛇にも、ましてや鬼の花嫁になんて絶対にさせませんから」


 低く、静かに告げられる直前、長く噛まれていたせいでわずかにあとのついたくちびるが薄く開かれて、そこからひどくゆっくりとした一呼吸があったことに鬼門だけが気づいていた。


 そうしなければ声が震えてしまいそうになる——感情を表に出そうとしない彼が努めて激情をやりすごそうとするときの癖で、言ってみれば抑えきれない怒りの発露だ。一方で緊張をほどいて見るからに安堵している少女の後ろで、まさに鬼のような気配を立たせる男が立っている。鬼門は堪えきれず、渦を回さないよう気をつけながらそっと嗤った。

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