第12話 真珠色の兆候
校舎の屋上から垂らされる得点表を見上げて、幸子は愕然とした。
鬼隠しにあう前は半分以上が空欄だったはずが、いまはそのほとんどに勝敗を表す紅白色の花飾りが収まっている。思った以上に時が経っていたことにおどろいたのはもちろん、とくに衝撃的だったのは『走り高跳び』に真っ赤な花が飾られてあったことだ。一騎打ちの状態にあった本田詩織が赤組で、すると軍配は彼女のほうに上がったことになる。
一メートル三十センチを、結局自分は跳べたのか、跳べなかったのか。祈りをこめて見つめてみても赤い花は白には塗りかわらない。京に名前を呼んでもらうというごほうびが消え失せてしまって、幸子は待機場所にある自分の席のうえに体育座りをする。
ちょうど玉入れから戻ってきた美世は『跳びすぎてしまった』らしい親友に詳しい事情を聞くつもりでいたが、そのただならぬようすに声をかけそびれる。姿が見えなくなるほど跳びすぎたという教員の説明を鵜呑みにしたわけではなかったものの、弱々しくまるめられた背中を見てしまえばなにも聞けず、たださすってやることしかできなかった。
「小鳥遊さん」
そこへ、わざわざ後ろのほうから席を立ってやってきたのは詩織だった。
風に乱されるショートヘアを耳にかけながら、気まずそうに、けれど誠実なまなざしで幸子を見おろす。
「三十センチが私の記録だった。あなたは、着地失敗っていう判定でだめになってしまったけど、でもバーはちゃんと越えられていたし、そもそも背面跳びに正しい着地もなにもないと思うの。……もちろんマットを出てしまうのはよくないけれど」
「ありがとう……ありがとう詩織ちゃん」
うつむく幸子から涙が落ちる。
結んでいたくちびるをひとたび開いてしまえば、泣き声を堪えることはできなかった。
「くやしい……すっごく、くやしいよぉ。三十センチ、わたしも跳べた気がしてたの。もしかしたらもっと高く跳べたかもしれない。詩織ちゃんに勝てたかもしれないのに……」
「……幸子ちゃん」
詩織は耳にかけた髪を指先で何度か触れてから、おずおずとその手を差し出した。
「これきりじゃないと思ってる。私、水泳でも高跳びでも、ううん……ほかのなんでも、あなた以上のライバルはいないってわかるんだ。中学のときから確信してた」
「詩織ちゃん……」
「だから、また私と競ってよ。何度でも」
目のふちに涙を光らせる幸子が、詩織を、それから自分に向かって伸ばされた手のひらを見つめた。
二人のやりとりはすこし前から周囲の注目にさらされていて、間近に座る美世ふくめだれもが新たな友情の芽生えを期待していた。もちろん詩織も手を取られることを信じていて、三年生のクラス席で状況を察していないのは幸子(と、玉入れでカゴ役をした疲労に力尽きている早乙女)だけであった。
「えっ! 戦うのはもうかんべんだよ」
(おなかキリキリしちゃうし、楽しくないし、やっぱり泳ぐのも跳ぶのも競走しないほうがいい。そういうのって、わたしはぜんぜん向いてない)
今回、生まれてはじめてと言っていいほど本気で競争をしたことでしみじみ感じたことだった。
「だから、これからはそういうのなしで一緒に——」
詩織の手をとろうとして、空振りする。
「じゃあ、そろそろ私行くね」
にっこりほほえんだ詩織の眉間には深いしわが刻まれてあった。クラスメイトたちが一斉に注目を解く。言うやいなや大股歩きに遠ざかっていく背中を見送りながら、ようやく怒らせてしまったらしいと気づいて冷や汗をかく幸子の背中を、美世が雑に叩く。
「見て得点表。もう白勝ち確じゃん」
教員たちによる借り物競走に京の姿はなかった。最終的に白組は勝利したものの消化しきれない事態が多々あった体育祭だったが、これに関して言えば幸子は彼が出場しなかったことに心から安堵した。鬼隠しでさんざん探させてしまったあとでさらに競技になどということになれば、あまりの申し訳なさで頭が地面にくっついてしまうところであった。
閉会式のあと椅子を抱えて校舎に戻ろうとする幸子を呼び止めた京は、下校したらできるだけすぐかなどめ堂に来るようにと念押しした。鬼隠しでなにがあったのか詳しく話を聞くことはもちろん、一刻も早く穢れを清めたほうがいいと深刻に告げられた。
家に帰るなり幸子は猛烈な勢いでシャワーを浴びた。こればかりはいかんともしがたい乙女心である。かわりに色つきリップも前髪を整えることも諦めてかなどめ堂に急いだ。
「来ました、かなどめさん!」
「塩の間へ」
店で迎えた京はスーツのままだった。
幸子が制服ではなく藍色のワンピースに着替えていることには言及せず、机に用意してあった白の着物を押しつけて奥の戸を開けた。
慣れた足取りで戸を抜けていく後ろ姿に向けて、京はそっと口を開いた。
声に出さず舌とくちびるの動きだけで、ある言葉をたしかめる。
多くの教員は体育祭での幸子の走り高跳びを失敗とみなしたが、彼女がバーを越えるところを間近から見ていた京の判定はそれとは異なった。スニーカーを脱ごうとしゃがみこむ背中がいつもよりまるくなっているのを見れば、結果がすべてだと切り捨てるのはあわれに思えた。ただ一言呼んでやるだけで、少女が狂喜乱舞することはあきらかなのだ。
躊躇が舌を重たくする。それがうっすらとした恐れによるものと京は自覚していた。
ため息とも深呼吸ともつかない長い吐息のあと、伏せがちに揺れていたまつげの先がようやく定まる——だがそのとき、シャワーのしめり気の残る後ろ髪からのぞいたうなじに、淡い虹色のきらめきを見つけてしまう。
骨の隆起するあたりをなめらかな光沢で埋めつくす白いそれは、蛇のうろこに似ていた。
『烏合の王』完
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