第11話 跳びすぎました

 やっぱり今度も名前を呼んでくれることはなかった。つかまれた腕をぐいと引かれてふり返れば、汗に濡れた前髪をひたいに張りつかせた京が険しく眉を寄せて見おろした。シャツの襟はボタンがいくつか外されて、ネクタイも雑にゆるめられた形跡がある。そんな彼の姿を目にするのははじめてのはずなのに、えも言わず懐かしくて、上下する肩の向こうに無意識にランドセルを探してしまう。


 言いたいことも聞きたいことも多すぎて、なにから言葉にしていいやら検討がつかない。このひとのそばにいればもう安心なのだと思うと、身体の内側で割れる寸前だった風船がしゅるしゅるしぼんで、頭を使う気力すら一緒に抜け出てしまったようだった。


 ぼうっとする幸子の腕をつかんだまま、京は木々の中に踏み出した。足取りはしっかりしていて、帰り道を知っているようだった。


「詳しい話は体育祭が終わってから、塩の間を出たあとで聞きます」


 あれだけ忠告されたにも関わらず鬼隠しされてしまったことを、呆れられるか怒られるかと覚悟していたのだが、すこし前を行く背中から聞こえた声はいつも通りだった。幸子はそっとうつむいて、喉のそばまで浮かんだ言葉をようやく一つすくいあげる。


「ごめんなさい……」

「それは、なにに対する謝罪ですか」


 咎めるような響きはなかった。首だけでふり向いた彼は、心なしか気遣わしげなまなざしをしている。


「鬼隠しされたことなら、おまえに落ち度はありません」


 送り狼を忘れたことは問題だと思いますけど、と一瞬だけ眉を寄せる。


「……跳んだ瞬間にあれは、さすがに。俺でも声を出したと思いますよ」

「えっ、かなどめさんでもびっくりしたりするんですか」

「おまえは俺をなんだと思ってるんです」


(目の前に雷が落ちたって平然と本を読んでそう……なんて)


 乱れたシャツや襟足からこぼれる汗を見てしまえば、もうそんなふうには思えなかった。


「ありがとうございます……ほんとうに。昔もいまみたいに見つけてくれたんですよね」


 なんとなく、この問いかけもまたはぐらかされてしまうのだろうと諦めていた。初対面でないことをこれまで隠されていたことと言い、彼の秘密主義めいたところはこれでもかと幸子の身にしみている。


 ところが京はこれに軽くうなずくと、おまえは覚えていないでしょうけどと前置きをしてさらに続けた。


「そもそも幼い子供は自我が気薄で、鬼の道に迷いやすいものです。おまえはそのうえ鬼のほうからも熱心に誘われるからなおさらで……幼稚園に上がるまでは隙あらばさらわれていましたね」

「お、覚えてない……」

「おそらく幼稚園で友達ができることでようやく自我が安定したのだと思います。……幼少期にあの体験はトラウマになりかねないですから、覚えてないに越したことはないです」


 ふと、少女のまつげがまたたく。


「……初対面じゃなかったってこれまで言わなかったのは、わたしが昔のことを思い出しちゃわないように?」

「それはたんに言う必要がないかと思って」


 にべもなくつき放されて幸子はくちびるを尖らせた。


「じつはわたし、ちょっとだけ思い出したんですよ。小さいころ、かなどめさんが迎えにきてくれた記憶……そこだけなんですけど」


 姿をはっきり覚えているわけじゃないのがもどかしい。けれどつないだ手は熱くて、汗でしめっていて、きっと必死になって探してくれたのだろうと察せられた。自我が希薄だったと京は言ったが、あのころもいまと同じくらいはっきりとした恋心を彼に寄せていたにちがいないと、幸子は自信を持って思う。


「わたしの初恋、やっぱりかなどめさんでした」


 眉すら動かさず、京はまつげの先で彼女を見やっただけだった。


 そんな予感はしていたので戸惑うことはなかった。あからさまにいやがられるよりはマシだと思いながらほんのすこし気落ちしてしまうのは、多少なり勇気を必要とされたからだ。


(そういえばわたし、山谷くんに告白の返事してない)


 そんなものは求められてすらいないようすではあったが、ただうろたえるばかりで答え忘れていた自分にも非はあるように思えた。後ろ髪を引かれた心地になってふり返ろうとしたところを、京の声が引き止める。


「そろそろ人の道に出ます。校舎裏ですね」

「——そうだわたし、走り高跳びは!」


 空に跳んだまま、着地する前につれてこられてしまったことを思い出す。あれからどれくらいの時間が経っているのかもわからない。


「おまえは跳んだまま、観衆の目の前で忽然と消えました。体育祭は続けられていますが、数人の教員がいまも捜索しているはずです。そろそろ警察に連絡をしているかも」

「どど、ど、どうしよう! それって、ふらっと出てっても許されるやつですか! だめですよね、なんて説明すればいいんだろう」

「『跳びすぎた』でいいんじゃないですか」


 冗談を言っているような顔つきではなかったが、そもそも冗談を言っても頬すらぴくりとも動かない男であった。さすがに真に受けることもできず、見慣れた校舎が目に映るまで必死にそれらしい理由を考えあぐねていた幸子だったが、駆けよってきた教員たちに向かって京は至極まじめな顔つきのまま「跳びすぎたようです」と言い放った。


 いけしゃあしゃあとした態度には妙な説得力があって、あんぐりと口を開ける幸子をよそに教員たちはおのおの納得したようすで散っていった。ちらと視線をよこした京は得意げになるわけでもなく、平然としている。


(かなどめさんって……ほんとうに、どういうひとなんだろう)


 幸子はこのときはじめて京に怪訝な目を向けてしまった。

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