第10話 烏合の王
『やあ、危ないところだった。それにしても烏合の王がたかだかうさぎの霊一羽に食べられてしまっていたとは、思いもよらない下剋上だったね。まあ、いまとなってはぜんぶぼくのなかにおさまってしまったわけだけど』
とぐろを巻くからだに、広場はほとんど埋め尽くされていた。みっしりとしきつめられる
「山谷くん」
ためらいなく幸子は名前を呼んだ。
声や話し方よりももっと感覚的な部分での判断だったが、目の前にそびえる大蛇が山谷新であることに疑う余地はないように思えた。相変わらず輪郭が白飛びするほどまぶしくて、あとから思い返そうとしたときやっぱりなにも浮かんでこなそうなところもいかにも彼らしい。
呼ばれた大蛇もおおげさな反応は見せず、ただ『そう、ぼく』と長い首だか胴だかをうなずかせた。
『すぐに見破るね。やっぱりカナドメから聞いていた? それとも鬼門から?』
「ううん、きみが蛇だったなんて知らなかった。でもなんだかしっくりしたっていうか、びっくりもしてないの——待って、山谷くんはかなどめさんたちのことを知ってるの?」
『そりゃあこの町の鬼で彼らのことを知らない奴なんていないさ。百鬼に相当するならなおさらね。ああ、でも
山谷は自身の腹のあたりを見おろすと、尾の先で撫でながら揶揄する口調でとがめた。
「クロちゃんは」
『心配しなくても、ぼくの中にいるよ。元烏合の王と一緒にね。いや、元々烏合の王? てことは、いまはぼくが烏合の王ってことになるのか。参ったな、カラスは嫌いなのに』
「た、助けてくれた……の?」
聞いておきながらあきらかに疑心のこもった声が出てしまったと気まずくなる。
だが山谷は気にしたそぶりもなく、また首だか胴だかを折り曲げてうなずいた。
『ぼくとしてはそのつもり』
「ありがとう……」ぎこちなく頭を下げたあとで、幸子はきゅっと眉の角度を上げて山谷を見上げた。「でも、できればその子を戻してあげてほしい。わたし、もう二度と名前を呼ばれても返事をしないよう気をつけるから」
『んー、どうかな。ねえユキコ』
「えっ」
渋るつぶやきのあとに続いた呼びかけは山谷ではなくクロちゃんの声だった。すぐにはっとなって口を覆った幸子だったが、漏れてしまった声は彼女がいちばんよく聞こえていた。
そのまま息をこらしてじっと辺りのようすを窺うも、しばらくしても視界が黒く染まることも見知らぬ場所に飛ばされることもない。ただ山谷が牙をのぞかせて笑った。
『うん、やめといたほうがいいよ。この子はまたすぐにきみをつれ去ろうとするし、きみは何度だってつれ去られる』
「……山谷くんは、わたしをどこかにつれ去りたいわけではないの?」
『それはもちろん』
『もちろん』つれ去るつもりはないのだと解釈して肩から力を抜く幸子をしり目に、彼はしゅるしゅる舌を鳴らしながら続ける。
『でも、勝手に連れていくっていうのはあまり好みじゃない。こういうの、ぼくは相思相愛でないとと思うんだ。だからきみから来てほしい。……あれ、おどろいた顔をしているね』
「……山谷くんも、花嫁がほしいの?」
『もちろん』の先の誤解に気づいて、幸子はまた肩を持ち上げながら慎重に問う。クロちゃんの鬼隠しの理由がそうと明らかになったわけではなかったが、もしかすると鬼の世界は絶賛婚活ブームなのかもしれないと疑った。
山谷は即答こそしなかったものの、満更でもなさそうに舌先をなびかせた。
『あらためて聞かれると照れるね。花嫁がほしいというか、きみを花嫁にしたいというか。……そうか、ぼくはもう気持ちを伝えたつもりでいたんだけど、もしかして気づかれなかったのかな。ほら、梅の枝を添えた手紙、あれぼくなりのラブレターだったんだよ』
しれっと告げられた事実には目を見ひらかずにいられなかった。彼に贈られたそれが常世の花だったこと、なかばそれが原因で引き起こされた
「あれのどこがラブレターだったの!」
『きみに似合いそうだと書いたよね。たぶん現世のどんな花より、常世の花のほうがずっと気にいると思う。だからこちらにおいでよって、お誘いの気持ちをこめて。ついでに鶯の鬼を常世への案内役にできたらと思ったんだけど、そううまくはいかなかったね』
会話をしているようで、相手の意見などこれっぽっちも聞いていないのは、クロちゃんと話したときにも感じたものだった。けれど山谷の独りよがりはわずかにニュアンスが異なる。
それがいわゆる色恋の含みであることを察すると、クロちゃんのほうには幸子を花嫁にする気などはなからなかったとわかる。
(……クロちゃんは、わたしを山谷くんから守ろうとしてここにつれてきたんだ)
カラスは不吉の象徴ではなく、凶事を報せて注意をうながす。
山谷の危険を伝えるためにカラスの王を食べたのだとすれば、『幸子のためにあわててのんだ』という言葉に筋が通る。カラスを窓ガラスにぶつけたのは忠告で、閉じこめようとしたのは保護のため——どれも度は越えていたが、幸子を救おうとしての行動だった。
「……きみが、わたしを呪っているかもしれないって聞いたんだけど」
『そうだよ』
意を決して切り出したつもりが、あまりにあっけらかんと答えられるのでかえって幸子のほうがたじろいだ。
「どうして、そんなことしたの」
『きみが好きだからだよ』
それ以外に理由があるかという口ぶりだった。わずかにも理解の余地が見つからず、幸子はぼうぜんとして大蛇を見つめるほかなくなった。もはやなにを問いただしても意味はないような気がして、ただただ疲れ果てた。
『……さて、おしゃべりはここまでかな。名残惜しいけど、ぼくはまだ見つかりたくないし。それにしても人の身でどうしてここまで来られるんだろう。やっぱりあいつ、』
その先はふっつり途切れた。
木のようにそびえていた大蛇は、文字通り瞬きの間に姿を消してしまった。
足音が背後から近づく——ふり返らなくてもそれが誰のものかなんとなくわかって、重たくなっていた身体のなかにまず安堵が、それからふしぎな懐かしさでいっぱいになる。
幸子は目を閉じて、じっと気配を待った。
(そっか……こうしてわたし、何度も迎えにきてもらってたんだ)
名前を呼んでくれたらもっと早く気づけるのにと、泣きべそをかきながら駄々をこねた記憶がよみがえる。黒いランドセルを背負った少年は、やっぱり寝癖に対してヘアセットの方法を問われたような困り顔になって、
(……なんて言ってたっけ)
あと少しで思い出せそうといったところで、後ろから伸びた温かな手につかまえられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます