第9話 鬼隠し

 まぶたの向こうがにわかに明るくなって、幸子はおそるおそる目をひらいた。


 鬱蒼としげる葉の隙間から、ついさきほどまですぐ間近にあったはずの青空が見えた。戸惑う身じろぎで落ち葉が音を立てる。バーを越えようとする身体はまだ落下を見ていなかったはずが、空中に投げ出した姿勢のまま彼女の背中はたっぷりの葉とやわらかな土に受け止められていた。割れるようだった百メートル走の歓声はさっぱり消え失せていて、葉を撫でる風の音とみずからの浅い息づかいだけが耳に届く。


 おもむろに起こされた体操着の背中にしめった土や葉が残る。耳の下でおさげに結んでいたうちの片方がほどけてしまって、結びぐせで外向きにはねる髪のあいだには何枚か落ち葉が絡んでしまっていたが、気にする余裕はなかった。


 どくどく音を立てる胸をおさえながら幸子は辺りを見まわした。彼女の座りこむ広場のような空間を取りかこむようにして、天までそびえる広葉樹が都内の満員電車を思わせる過密さで肩を寄せあっている。当然、こんな場所は校庭のどこでもない。


 どこかもわからないところにつれていかれるのが『鬼隠し』——。


 京の言葉がにわかに頭をよぎった。空へと跳んだ瞬間、たしかに名前を呼ばれた。


 決して応じてはいけないと念を押されたことを思い出す。強く握られた幸子の指先から、じわじわと熱が失せていく。


(返事はしてない……してない、けど、声は出ちゃった気がする……)


 誰もいない道でふいに肩を叩かれたような、とっさに漏れでたそれは返事というよりも悲鳴に近い。だが、つれてこられてしまった原因はそれ以外に思いあたらなかった。


 幸子は目前にそびえる木立のうろをぼうぜんとながめながら途方にくれてしまった。呼びかけに応じたつもりはなかったが、人間のことわりなど鬼にはまったく関わらない。ここに自分をとらえたのはそういう存在なのだと、冷えて震える指先が実感している。


 ふと、見つめるうろの暗闇が蠢いていることに気がつく。


 空洞のはずが、脂をしみこませたような鈍い光沢を帯びて、まるで呼吸をしているかのようにふくらんだりしぼんだりをくり返していた。


(な、なに……中に、なにか)


 腐りとけた穴をみっちりと埋めるそれは、見つめるほどに見つめ返されているようで、怖くなった幸子は目をそらす。だがその先でもまた別のうろに視線をつかまれる。


 そのとなりの木も、となりの木も、腹にぽっかりと空洞。

 目玉の沈んだ眼窩がんかのような。

 空洞。空洞。空洞——

 見渡すかぎりどの木立の腹にも穴があいている。その一つ一つにがひそんで、感情のうかがえない、死んだカラスの眼をじっと幸子に向けている。


 うろを抱える木々と、根をはる地面、葉で覆われた空、それらすべてが不気味に息づいていた。無数の視線が足もとに絡みつくようで、とっさに彼女は駆けだしていた。


(どうしよう、どうしよう……そうだ、送り狼さんは)


 スカートのポケットを探るつもりで伸ばした手が体操着の短パンに触れる。そこにポケットはなく、少女の頬からはみるみる色が抜け落ちた。


(あぁ、ばか、スカートごと教室に置いてきちゃうなんて。肌身離さず持ち歩きなさいって、かなどめさんに言われてたのに……)


 連れ去られる直前に見た、空に真っ黒な翼をひろげたクロちゃんを思い出す。その姿に懐かしさはなく、ただ暗闇にのみこまれる恐怖だけが生ぬるい質感をもって胃の底にこびりついている。


 京の言ったように、花嫁にしたいなどという好意からの鬼隠しであったとして、鬼と人間の『好き』はまったく別物だという彼の授業を理解したうえで、それでもいざさらわれてしまったら話をすることでどうにか分かり合えるような気がしていた。


 だが、やみくもに走ってきたはずの先がひらけて、中央に黒うさぎが座りこんでいるのを目にしたとたん、本能がきびすを返していた。


『かあ』


 うろから鳴き声がする。


『かあ、かあ』

『かあ』

かあ


 カラスの声に幼子おさなごの呼びかけが重なる。


かあかあ

かあ


 鳴き声から逃げて、逃げたつもりが追い立てられ、やがてまた黒うさぎを見つける。


『こっちおいで、ユキコ』


 思わず足をすべらせて、落ち葉に尻もちをつく。どうにか逃げようと後ろをふり返った幸子は、そびえる無数の木立がどろりと幹を溶かしてとなりの木との境をなくしてしまっているのを見て腰を抜かす。辺りを囲う木の壁は彼女の逃げ道を完全にふさいでいた。


 うろの一つから成熟したカラスが一羽、糸をひきながらぼっとりと産まれ落ちる。


 赤黒い粘液の膜をまとわせるくちばしが『かあ』と鳴く。その声に呼ばれたかのように、ほかの木々も一斉にうろからカラスを産み落としはじめた。


 かあ、かあ、かあ、かあ……赤子の泣き声がまざる。幸子は耳をふさぐ意力すら失せて、異様な光景をただ見つめることしかできない。


『こわくないよ』


 クロちゃんは片耳を足でかいた。そのひょうしに、それまでからだに添うように折りたたまれていた真っ黒な翼が一瞬はためく。


「その、羽は……」


 ふりしぼられた声に翼がばさりとひらかれる。たたまれていたときはカラスと変わらないほどだったのが、高く持ち上げられるにつれてみるみるひろがっていって、やがて幸子一人難なく包みこめてしまう大きさになる。


『つばさ。カラスの、おおさま』

「王様? どうしてクロちゃんが」

『おおさま、たべた』


 つぶらな瞳は瞬きをしない。


「た……べた、って」


 キャベツの葉一枚すら時間をかけて食んでいた小さな口では、カラスの首すらとうてい入りそうにはない。青ざめる幸子がそれ以上声も出せずに見つめるなか、クロちゃんはのんきに大あくびをした。そのとき桜の花びらに似た舌の奥に、ちらと暗闇がのぞいた。

 閉じきらない戸の隙間のような、なめらかな障子の肌に小指ほどあけられた穴のような、あるいは木立が腹に抱えるうろのような——警告する本能を無視してのぞきこもうとする目は、もはや彼女の意思を離れていた。


 穴の奥は真っ暗でなにも見えない。

 カラスの眼もくちばしも。

 そのくせ、息づいている。


 さらに目をこらす前に、ぱちりと、シャッターをおろすように口がまたたいた。そこになにかが映りこんだかどうか、無意識にいましがたの記憶をたしかめようとする思考を


『カア』


 ひときわ大きな鳴き声が遮った。

 まぎれもなくクロちゃんの口の奥から漏らされたものだ。彼は『おっと』と鼻をひくつかせた。


『まだ、なじんでない。ユキコのため、あわててのんだ』

「わ、たしのため……?」


 震える声がくり返した。


「で、でもわたし、もとに戻りたい……帰りたいよ。いまね、体育祭で、すごく高く跳べそうなところだったの……それにここには家族も友達も、かなどめさんもいないし」

『でも、ここにはぼくがいる。それでたくさんおはなしきかせてあげる。ユキコがぼくにそうしてくれたみたいに。だいじょうぶ、たくさんこどもたちがいるから、さみしくなんてないよ。ずっとずっといっしょだよ』


 応えているようで、幸子の言葉などまったく意にかけない滔々とうとうとした口調だった。


 それまで座りこんだままでいたからだがおもむろに起こされて、前足が一歩、彼女のもとへ踏みだされる。ガラス玉のような瞳が死んだカラスのそれに重なって幸子は喉をひきつらせるような悲鳴を漏らした。逃げたい、逃げようと考えるのに足に力が入らない。


 翼が伸ばされる。まぶたを閉じることもできないでいる幸子の視界が、まったく暗闇に支配されてしまおうとするその間際——


 クロちゃんの背後に白い巨木がそびえる。それがかま首をもたげた大蛇であることに彼女が気づいたとき、カラスの王たる黒うさぎはすでにひとのみにされたあとだった。

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