第8話 黒い翼のなか

 出会ってからまだ一度も名前で呼ばれていないことに気づかない幸子ではなかった。


 むしろ彼が『おまえ』と幸子を見やるたび(それはそれで雑な感じがたまらないと悶えつつ)いつ名前を呼んでくれるのかと期待して、けれどこのごろはなかば諦めモードで、きっとこのひとは誰に対しても名前を呼んだりしないのだろうと自分を慰めていた。そんななか耳にした『慶子さん』呼びの衝撃たるや。


(微妙な顔してたなぁ)


 告白したときは寝癖を褒められたような表情をしていたが、今回は寝癖に対してそのヘアスタイルどうやってアレンジしたのやり方教えてとせっつかれたような困惑があった。


 だが、あきらかに不精不精ではありながら、彼はたしかにうなずいたのだ。

 なぜ慶子のことはみずから呼んで自分を呼ぶのはためらうのか、思うところがないではない幸子だったが、高跳び台を目前にしたいまなにより大事なのはこのバーを跳びこえれば名前を呼んでもらえるという事実のみだ。


 背中には歓声、土を削るような激しい足音、定期的に鳴らされる空のピストル。

 校庭の中央では百メートル走が行われていて、走り高跳びははしのほうで行われる。ほとんどの視線は百メートル走のほうに集うが、周囲を見ればわざわざ席を立ってやってきてくれたらしい美世や早乙女、両親、そして鉄棒にもたれるように京の姿もあった。


(まずは一メートル。だいじょうぶ、これは余裕)


 練習のときの幸子の最高記録は一メートル二十六センチ。同じ記録が出せれば、少なくとも女子のなかで二番は堅い。


 最初の一メートルを難なく跳んだ幸子は、そのあとに余裕の顔をして一メートルを跳びこえた少女をちらと見る。


 手足がすらりと長い、バーを跳ぶとき風になびくショートヘアがよく似合う本田ほんだ詩織しおりは中学生のころ同じ水泳部のメンバーだった。

 彼女の高跳び最高記録も、一メートル二十六センチだ。


 詩織とは水泳部時代も同じタイムを出すことが多かった。そのたび鋭く目を吊り上げてつぎは負けないからと宣言しに来る彼女のことが、幸子はあまり得意ではなかった。

 勝ち負けにどうしても興味が持てず、そのことをあちらがよく思っていないだろうことも察していた。高校に部活はなかったが、もし水泳部があったとしても詩織がいたならば入部することはなかっただろうとすら考える。


(でも、今回は……)


「わたし、二十六センチまでパスします!」


 手を挙げて宣言した幸子は、詩織から強い視線を向けられたことを感じた。


「私も、二十六までパスします」


 詩織も手を挙げる。

 二人の視線がぶつかった。


(同率じゃ、いちばんになったとは言えないよね。わたし、詩織ちゃんに勝たなきゃ)


 幸子と詩織は、順に引き上げられていくバーとそれを跳ぶ選手たちをはしから眺めた。

 高さが一メートル二十センチを越えたところでほかの選手はリタイアして、そこからバーは一気に二十六センチまで上げられる。


「じゃあ小鳥遊さん、どうぞ」


(二十六はいけた。跳べる、跳べる)


 たん、たん、とリズムを唱えて走りだす。

 どれだけ緊張しても跳ぶときは一瞬だ。


(怖がらないで、空を泳いで)


 ぐっと大地を蹴る。

 どこまでも深い群青が幸子をのぞきこんだ。空へ落っこちてしまいそうと思ったとき、背中から生える翼がひれのように羽ばたいて再び地上へとゆるやかに身体をおろす。


 ぱちぱちと拍手の音で、跳びおえたと気がつく。身を起こした幸子はとっさに詩織を見た。彼女もほかの選手たちと同じように手を叩きながら、どこか嬉しそうに挑戦的な目を光らせている。

 水泳部時代は幸子のタイムに勝っても負けてもそんな表情は見せなかった。

 いつも感じていたきつい印象が、わずかなほほえみがにじんだだけでとたん少女らしい可愛さに変わって、幸子はぽかんとしてしまう。


 しっかりとした足取りで位置についた詩織は、幸子についで一メートル二十六センチを跳びこえる。


「つぎ、私、三十センチいきます」


 ぎょっとする幸子を、詩織がふり返る。


「跳ぶよ、小鳥遊さん」

「うう……わかったよ! わたしも三十!」


 一メートル三十センチは、幸子にとっては未知の領域だった。いつも二十七センチでバーは落ちる。けれど詩織が跳ぶと言うのなら、跳ばないわけにはいかない。


「一メートル三十センチ。では小鳥遊さんからどうぞー」


 はじめて目にする高さは、さきほど跳んだものより数センチの差でしかないはずなのにひどく途方もないもののように感じられた。


 思わず鉄棒のほうに目を向けると、腕を組んだ京がまっすぐ見ていた。美世や早乙女のように声に出して応援をするわけではなかったが、彼が見ていてくれると思うだけで怖気づく気持ちはすっとどこかへ消えていく。


(名前……呼んでもらうんだもん)


 想像だけで空だって飛べるはずだった。

 息をととのえて、足を踏みだす。


(たん、たん、ぎゅっ、で)


 足の裏全体で、大地を蹴る。

 空に心をあけわたした、そのときだった。


『ゆきこ』

「はえっ」


 まばゆい真昼の太陽が影に覆い隠された。


 天上から真っ黒な翼がおろされて、空へ浮かぶ身体は逃げようもなくのみこまれる。あらがいきれない黒がまたたくまに幸子の視界を塗りつぶして、世界から切り離していく。


 光が途絶える寸前、漆黒の翼のまんなかからひたと見おろす黒うさぎと目があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る