第5話 五月の空

 それから幸子がカラスを目にする頻度は圧倒的に増えた。視界のはしをクロちゃんが横切ることもある。いかにも追いかけてきてほしそうに見つめられても、彼女は京の忠告を守って決してついていかないようにしていた。


 一方で、山谷新の姿はぱったりと見なくなった。彼を探して保健室を訪れることをやめたため、いまも無人のあいだはそこにいる可能性はあったが、少なくとも山谷のほうから幸子に会いにくるようなことはなかった。


 カラスに睨まれる日々のなか、満開だった桜はいつしか散り落ちて五月がはじまった。


「見て、早乙女モテモテじゃん」


 校庭に引かれた白いラインの内側を、カゴを背負った早乙女がめちゃくちゃに駆けまわっている。その後ろを十人ほどの女子たちが追いかけながらおのおの手に拾った赤いお手玉を投げつけていた。ラインを越えて転がってきた玉の一つを拾った美世は、地べたにあぐらをかいたままそれをぽーんと投げ返す。


 学校指定の紺色の長袖ジャージに、フリルやレースのアレンジはない。美世いわく、ふつうにそれは動きづらいじゃん、とのことである。体育のたびそんな彼女を新鮮な気持ちで見やる幸子だったが、毎朝の体育祭練習のおかげでここ最近はすっかり見慣れていた。


「早乙女くん体力ないねー」


 同じ紺色のジャージの腕と足とを袖まくりして着る幸子は、美世のとなりで膝を抱えながら悪気なく言った。すでに二分以上ああして走りっぱなしでいる早乙女はへろへろになっていて、背中のカゴには玉を直接つめこまれている始末だ。


「おい早乙女カツ入れろ! カゴんなかの玉ぜんぶふり落とす勢いで走れーっ!」


 幸子、美世、早乙女は同じ白組である。

 赤組の女子たちに追いかけられる早乙女に美世の喝がどれほど聞こえたかわからなかったが、彼は立ち止まりかけた足をのろのろと動かしながら、残り時間まで耐えることにしたらしい。


「あんたは体力おばけだよね」


 息をついたあとで美世は幸子を向く。


「この前、助っ人でうちの玉入れやってくれたじゃん。赤組のカゴ担当の男子、おびえてたよ。幽霊みたいにずっと背後についてくるって」

「リレーに出れるほど足が速いわけじゃないんだけどねぇ」

「あ、そろそろ高跳び、女子の番じゃね?」


 校庭のすみに設置された高跳び台から男子たちがひいていくのを美世が指さす。ちょうど体育祭委員の女子が、メガホンで幸子たち女子の高跳び選手に呼び出しをかけた。


「それじゃ行ってくるね」

「おー。応援してっからめちゃくちゃ跳べ」


 入学したてのころ、黒板に書き連ねられた体育祭種目のどれもあまりピンとこず、そのなかで人数が足りていないようだからとてきとうに選んだのが走り高跳びであった。それが案外と自分に向いていたことを、幸子はふしぎな巡り合わせのように感じている。


(水に浮かぶのと似てるのかもしれない)


 中学の三年間は水泳部に所属していた彼女にとっては、陸よりも水のなかのほうがはるかに動きやすい。

 だが、ライバルと常に隣り合って競争をしなければならなかったことを思えば、なにも考えず空だけを見ていられる高跳びのほうが性に合っているような気がした。


「つぎ、小鳥遊さんどうぞ」


(はし、る、走る……)


 地面を蹴って、ぐいと助走をつける。

 土のまざる五月の風が青くにおう。


(たん、たん、ぎゅっ、で)


 足の裏に強く大地を感じたとき、幸子の心はもう空にある。

 おへそのあたりが軽くなって、目前に近づく雲に触れようと手を伸ばす。足が浮かぶ。からになる頭のなかに涼やかな青空がとけこんでくるようで、この一瞬が気持ちいい。


「まだバー上げてもぜんぜんいけるね」


 声をかけられて、ようやく幸子は着地に気づいた。えへへ、と照れ笑いをしながら、いまのかっこいい跳躍をどこかから京が見ててくれていなかっただろうかと辺りを見渡す。


(さすがに朝練の時間はいないか)


 玉入れをする周辺から、美世が手をふった。それに親指を立てて応えながら、ふと思う。


(そもそも体育祭にかなどめさん来るのかな……臨時の先生ってことは、授業がない日はお休みだろうし……)


 なんだかんだと引き延ばされていた『鶯宿梅』の個別授業が終わったあとも、あるときは古本を買いに、あるときは授業や宿題の解説を頼みに、さまざまな言い訳を作って幸子は頻繁にかなどめ堂に通った。そのあいだ、店にほかの客の姿を見たことは一度としてない。


 本棚の密林にたった一人、もはや仙人のように座りこむ京を見ていると、なんとなく彼は人混みが苦手なのだろうと感じられた。体育祭などという煩雑はんざつとした催しに、好きこのんでやってくるようには思えない。


(かなどめさんが見てくれるなら、わたしほんとうに空だって飛べちゃうかもしれないのに。それに、もし先生として体育祭に参加してくれるなら——)


 毎年、生徒たちの競技がおわったあとは教員たちによる借り物競争が行われるのが恒例であった。幸子の頭のなかでは、『好きなひと』という紙切れを持った京が走ってきて強引に彼女の手を取り、二人でチャペルにゴールインする流れまで鮮明に映しだされた。


「えへ……」


 さすがにそれは妄想でしかありえないと理解しながら、それでも全力疾走する京の姿はやっぱり見てみたいと思う幸子だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る