第4話 好きなものは

 放課後を待って訪れたかなどめ堂で、幸子は店主から二冊の本を受け取った。


 挨拶もなんの説明もなくつきつけられたそれを、戸惑いながらもとりあえず手に取って表紙をたしかめようとするのを待たず、京はみずからの定位置まで彼女をつれてくると紺の羽織りのかかる椅子に問答無用で座らせた。


 せんべいのように薄くなったあずき色のざぶとんが敷かれる木椅子は、背もたれや座面にまだ主人のぬくもりを残していた。ひだを整える間もなく座らされたことでぐしゃりと広がってしまったスカートを、おしりに撫でつけながらあらためて座りなおそうとして、幸子ははからずも素手にそのぬくもりを感じてしまった——とたん脳内に『ラッキースケベ』の文字がチカチカと点滅しだす。

 衝動のまま立ち上がりかけた肩は、真上からおろされた手にすぐ押し戻された。


「読みなさい」


 端的にそれだけを言うと、幸子の背後に立つ京はそれきり口を閉じてしまった。だが本を開くのをいまかと待つ視線がつき刺さる。


(かなどめさんって、説明好きなのにいっつも説明足らず)


 そろそろ彼のこういったところにも慣れてきた幸子は、とりあえず言われたとおりに本を読んでみることにした。圧倒的に言葉少なではあるけれど、こちらから聞けば懇切丁寧に教えてくれるのだろうという信頼は、あえてなにも聞かなくていいという気にさせた。

 知り合って間もないうえに恋のフィルターはおおいにかかっているが、彼女にとって京は決して間違ったことを言わない先生だ。


 かくして、まずは上に重ねられてあった文庫本から手に取る。ページからはみ出る藍色の折り紙に触れたところで、京がようやく口を開いた。


「しおりを挟んだ、その一編だけ」


 言われたとおりにページをひらくと、『夜長姫と耳男』とのタイトルがあらわれた。抜き取った桔梗のかたちの折り紙を机のはしに退かしたあとで、よく読みこまれて紙のやわらかくなったページを大きくひろげる。


 授業以外で小説を読むことのない幸子はその一瞬だけ文字の圧にひるんだが……読みはじめてみれば童話のような語りは思いのほかわかりやすく、物語はすらすらと頭のなかにしみいった。


 それはある美しく残酷なお姫さまと、そんな彼女に魅入られながら激しい憎しみを抱く男の恋物語——幸子が知る恋物語とはあまりにかけ離れたものではあったが、おそらくこれは恋の話なのだろうと彼女は思った。

 『好きなものはのろうか殺すか争うかしなければならないのよ』夜長姫の言葉はひどく印象的で、本を閉じたあとも姫のかなしく無邪気な声が耳の奥に残るようだった。


「……つぎは源氏物語ですね。読むのは『葵』です。現代語訳はされてありますが、もしわからないことがあれば聞いてください」


 余韻に浸る間もなく二冊目をうながされて、言われるまま手に取る。またもやしおり代わりの折り紙がはさまれているページを開きながら、彼を疑うわけではないけれど、と幸子は複雑な気持ちで背後に気をやった。『夜長姫と耳男』があまりに衝撃的で、いったいどういう意図のセレクトなのかいまさら気にかかった。


 『葵』はほんの短く、幸子は一年生のときに授業でも学んでいたので(気づいたのは本を閉じたあとだった)すぐに読みおえた。恋情のもつれが引き起こした悲劇の物語……そう読めば、二冊の小説の共通点は恋の話ということになるのだろう。だが、さきほどの夜長姫の言葉を引きずって読むと、主役である光源氏ひかるげんじやこの話のヒロインである葵上あおいのうえよりも、ままならない恋に自分でも知らぬうちに生き霊となって葵上を呪い殺してしまった六条御息所ろくじょうのみやすんどころのほうが強く印象に残った。


(好きなものは、呪うか殺すか争うかしなくちゃならない……そんなのかなしすぎるけど、このひとたちにとってはそれが真実なんだ)


 閉じた二冊を手もとに重ねて、幸子は後ろをふり返った。

 一時間以上は経っているはずだったが、京は本を読みはじめる前に見たときと同じ腕組みの姿勢のままそこに立っていた。


 目が合うと、おもむろに腕をほどく。


「——これを言うと、調子に乗らせてしまいそうでこれまで黙っていましたが」


 彼はそこでいったんためらうように言葉を止めたが、重たいため息を挟んで続けた。


「おまえは、どうやら鬼に好かれやすい人間のようです。それが体質なのか人格によるところか俺にはわかりませんが、さっきの黒うさぎ、それから送り狼にしろカラスにしろ……」

「えっ! カラスも鬼なんですか!」


 幸子にとっては思わず声を上げずにいられないほどの衝撃があったが、京は当然のことを聞かれたようにあっさりうなずいた。


「カラスは鬼の道とこちらの道とを自由に行き来できるんです。そのなかで、あちらに長くいた個体は生きながらしだいに鬼となります。おまえにちょっかいをかけているのは鬼のほうですね」

「そ、そうなん、ですか……でも、じゃあどうして鬼のカラスさんはわたしに襲いかかってくるんですか? どちらかといえばわたし、嫌われてるって言われたほうがしっくりきます」

「彼らはおまえを襲ったつもりはないと思いますよ。現に、外にいるときに飛びかかられたことはないでしょう」


 言われて思い返せば、たしかに二度の突撃はどちらも窓ガラスごしで、鬼の道を迷っていたときも黒うさぎを追いかけていたときも近くにはいたけれど直接襲いかかってくるようなことはなかった。


「カラスがなぜ不吉の象徴とされているか、知っていますか?」

「ええと……カラスを見たあといやなことが起こる、から?」

「ええ、そうです。鬼となった彼らは危険を察知する能力が秀でて、なかば予知能力のようなものを得ます。そうして、気に入った人間に危険を知らせようと現れるために、不吉の象徴などと呼ばれるのです」


 カラスの襲撃はそれぞれ、鬼の道に迷う前日と、鶯の鬼と対峙する前日だった。幸子に京の言葉を疑う気はない。それでも、危険を告げるためにどうして彼らが命がけの行動に出たのかについては理解に苦しむところだ。


「鬼の好意は、人のそれとは質が違います。たんに好かれやすいと告げただけではおまえは呑気に喜ぶだけで終わりそうだったので、鬼に好かれるということを正しくわかってもらうためにそれらの本を読ませました。夜長姫、六条御息所……俺にはどう言葉にしてよいか、難しいのですが……彼女たちの好意がどういったものか感じられましたか?」

「はい……なんとなくですけど、えっと」


 自分自身でさえ制御できない狂気。深く愛していながら憎まずにはいられず、憎しみがあるからこそ愛情はなお凄みを増していく……幸子はどうにか自分のなかの言葉でそれらをつかもうとして、はっとひらめいた。


「ヤンデレ……ですね!」

「やん、でれ」

「はい、ヤンデレです。〝ヤン〟は病むとかのヤンで〝デレ〟はツンデレとかのデレです。月刊『マカロン』……あ、少女漫画の雑誌なんですけど、そのなかだと『アイツとあたしの実情』の霧切くんとかそうですね。夜長姫は……霧切くんより凄まじかったですけど、ろく、ろく……どころさんはぽかったです。霧切くん、三話で生き霊になってましたし」


 京は本当にわかっているのかと疑わしげに眉を寄せていたが、やぶ蛇を察して〝ヤンデレ〟についてはそれ以上触れなかった。


「……おまえを呪ったと思われる、転校生をかたった鬼も悪意でそんな真似をしたわけではないと思います。むしろおまえを好いた結果、呪ってしまったのかと」


 それを聞いて、知らず幸子は背もたれによりかかっていた。

 胸につかえていた不安が、安堵のため息となって漏れていく。どうしてこのひとはああも話すのが下手なのに欲しかった言葉がわかるのだろうと、気の抜けた顔で京を見上げた。


 そのひたいを、人差し指に軽く弾かれる。


「安心するところではありません。鬼の好意は、人にとっては毒と表裏一体です。正しくおそれなさい。実際に今日、あの黒うさぎにつれていかれそうになったばかりでしょう」

「クロちゃん? あの子、わたしをどこにつれていこうとしてたんですか?」

「さあ。どこかもわからないところにつれていかれるのが、鬼隠しですよ。おおかたおまえを花嫁にでもしようと企んだのでしょう」


 唖然とする幸子を、じとりとした目が睨む。


「『なにに呼ばれても決して応じるな』と、たしかに忠告したはずですが。覚えていませんか? 黒うさぎが名前を呼んだとき、一言でもそれに応じていたらいまごろおまえはここにいませんよ」


(好きなものは、呪うか、殺すか、争うか……)


 クロちゃんは死んで、道は異なった。

 ようやく幸子の身にその意味が刺さる。


「鬼が名前を呼ぶときは、それをみずからのものにしてしまおうとするときです。肝に銘じて、ゆめゆめ忘れないように」





***

引用

坂口安吾『夜長姫と耳男』青空文庫

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42614_21838.html(アクセス日:2023/02/11)

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