第3話 黒うさぎ追って
翌朝、幸子は登校するなりまっすぐ保健室へと走った。
出迎えた七村三和子は、ホームルームも始まらない時間からの来客に、たっぷりマスカラの乗せられたまつげをしばたかせた。ふくらとした大きな胸を抱えるように腕組みして、先のとがったあごに人差し指をあてながらじっと見つめる瞳は猫に似ている。
息せき切ってやってきた幸子が呼吸を整えるあいだに、彼女の頬やら目もとやらをぺたぺたと触れたり伸ばしたりして、やがて物憂げに眉を寄せながらつぶやいた。
「うぅん、寝不足ねぇ」
「せ、せんせ……」
「だめよぉ、しっかり睡眠はとらないとお肌が死んじゃうわぁ。小鳥遊さん、三年生だったわよね。トベちゃんには三和子から言っておくから、一時間目まで仮眠しなさい?」
「先生、先生、違うんです。……わたし、山谷くんを探しにきて。今年、転校してきたっていう山谷新くん知りませんか?」
「転校生? うぅん、今年はいなかったはずよぉ。それに山谷新くんって生徒も、たしかこの学校にはいなかったと思うけれど……」
七村の言葉に、幸子は愕然とした。京の言うように、転校生などほんとうにいなかった。それならば彼はいったいなんだったのか。顔は思い出せずとも、彼のほほえみがいかに優しげであったかその印象だけははっきりと覚えている。
呪われていると言われたことが昨晩から頭を離れない。山谷が人間かどうかということよりも、あれだけ穏やかそうだった彼が呪いたくなるようなことを自分がやらかしてしまったのかもしれないということのほうが幸子にとっては深刻だった。
(またわたし、知らないうちに傷つけてしまったの? ううん、呪われるくらいなんだから、しかもすごく怒らせてしまったのかも)
だが、送り狼や鶯とは違って、山谷とは会話ができた。なにかしてしまったのだとしたら、彼には直接謝ることができる。
七村も誰もいないときに訪れたらまた会うことができるだろうか。山谷が座っていたベッドを名残惜しく見やりながら、ひとまず保健室をあとにしようとしたときだった。
ちょうどベッドの奥に見えるカーテンが風にあおられたように大きくはためいた。ぴたりと閉じられている窓ガラスがその一瞬あらわになって、すぐ外を真っ白な少年の横顔が通り抜けようとした。
気まぐれに波打つカーテンがつぎにめくれ上がったときすでにその姿は見えなくなっていたが、幸子は彼が山谷だと確信する。
「いやーっ! なんでカーテン揺れてるのぉ、怪奇現象! 怪奇現象だわぁーっ!」
遅ればせて気がついた七村の悲鳴を背中に、幸子は走りだしていた。彼を見つけたのは決して偶然ではなく、こちらに来るようにと誘われているような気がしたのだ。
昇降口でローファーをひっかけて、靴のなかに砂が入りこむのもお構いなしに校庭へ駆け出る。そうして彼の姿を探そうとしたとき、足になにかやわらかなものがぶつかる感触があった。
思わず視線を落とせば、かかとの乗ったままのローファーに黒いふわふわのかたまりが寄り添っていた。幸子が見ていることに気づいたのか、垂れた長い耳が片側だけ揺れる。それからおもむろに丸い尾を見せつけると、弾かれたようにぴょこぴょこ跳ねて逃げだした。
おしりには白いまだら模様が、まるで四つ葉のクローバーのように映えている。ひどく懐かしいその模様を、しかし幸子が忘れるはずはなかった。高校に入学してからたった半年にも満たないあいだではあったが、彼女は生き物委員として、この学校に一匹だけだった彼を最期まで愛情深くお世話したのだ。
「クロちゃん……!」
黒うさぎは立ち止まらない。突然のことに山谷のことも忘れて、あわてて追いかける。
(クロちゃん、あれはクロちゃんだ。わたしがクロちゃんを見間違えるわけない。でも、どうして? あの子はもうとっくに……)
ほかの生き物委員の子たちと泣きながら埋めたことを、昨日のことのように覚えていた。いまも校舎裏にお墓があるはずだ。小さな後ろ足が砂を蹴りあげるさまを見ていると、じつは生きていてこれまでどこかに隠れていたのではないかという考えさえわく。
ふと、羽音が聞こえた。音のほうを見やれば、ちょうど地面にカラスが降りたつところだった。その間にまた羽音、そして鳴き声。どこからともなく降りてなにをするでもなく居座るカラスたちは、気づけば黒うさぎまでの道を飾るように黒い羽を揉みあっていた。
うごめく黒は、校庭のはしのうさぎ小屋まで続いていた。施錠されているはずの入り口はなぜだか開け放たれてあって、そこへクロちゃんが先んじて入る。
小屋のなかに敷きつめられてあった砂はとうに片付けられて、コンクリートの地面がむき出しになっている。がらんどうのまんなかで、クロちゃんはじっと幸子を見上げていた。桜色の鼻がひくひくと動く。
入り口で立ち止まる彼女をしばらくそうして見つめていたかと思うと、やがて小さな口が開かれて、白い前歯をあらわにする。
『——ゆきこ』
舌足らずの少年のような声だった。
『ゆきこ、おはなし。ゆきこの、うんめいのひとのおはなし、きかせて……』
幸子の目に涙がふくれる。
やっぱり、彼はクロちゃんで間違いなかった。小屋の掃除をしながら、くり返しいろいろな妄想を語って聞かせた思い出がよみがえる。
ゆきこ、とまた名前を呼ばれて、彼女は一歩を踏みだしかけた。
その腕をうしろから引き止められる。
「——おまえは」
焦りをにじませた、苛立った低い声が幸子の耳もとに落とされた。
「みずから遭いにいってどうするんですか」
走ってきたのか、京はわずかに息を乱しながら言うと幸子の腕をつかんだままその場を離れようとした。「待って、クロちゃんが……」あわててふり向いたときすでに黒うさぎは見えず、空の小屋が寂しげに見返す。
カラスを散らすように行きながら、京は眼鏡のレンズごしに鋭い目で幸子を見やった。
「……以前俺が言ったことをすっかり忘れているようですね」
「えっと……」
必死に心当たりを探ろうとするけれど、いましがたの出来事と間近で見るスーツ姿の京に動転してしまって、頭はうまく働かない。
重たいため息が落とされて、つかまれていた腕が放される。おもむろに立ち止まった京は、高い背から冷ややかに幸子を見おろして言った。
「放課後」
たった一言、それだけでかなどめ堂に来るよう言われていると察して、幸子はあわててうなずいた。説教をされてしまうのだろうと予感はあったが、それはそれとしてまた誘ってもらえたことが単純にうれしくもあり、片側の口角を殊勝に下ろし片側の口角を堪えきれず持ち上げる複雑な表情を浮かべていた。
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