第2話 常世の花
国語の授業がないというだけで、幸子は時計の針に焦らされつづけた。あんまり進みが遅いので目を離している隙にサボっているのかもしれないとすら思ったが、白い
カバンのなかには、京に言われたとおり古典の教科書とノートを準備してきている。つぎの授業の準備で目に入れては、そのたび昨晩の彼の言葉を思い出して幸せを噛みしめた。一方的に押しかけるのと招かれてかなどめ堂に行くのとでは恋する乙女にとって雲泥の差である。もはやこれはデートと言ってしまってもいいんじゃないかと浮かれてしまうのを、たしなめる理性も目尻がとけていた。
終礼のあと転がるように教室を出た幸子は、相も変わらずシャッターだらけの商店街を踊るようなスキップで通り抜けていく。
「ちゅ〜るりら〜、ちゅるりら〜」
尖るくちびるからご機嫌な歌が奏られる。
「あなたに逢う〜、春色プレリュード〜」
『春夏冬』の札が見えても、前髪を整えるため足を止めるのが惜しかった。
勢いのまま開けると、また例のレジスターの奥にあると思われた店主の姿は予想外に入り口のすぐそばにあった。スキップのなごりで飛びつきそうになった足はたたらを踏んでどうにか立ち止まる。
ぐっと姿勢を伸ばして、横顔に挨拶する。
「こんにちは!」
青藤色の着物に紺の帯をしめた京は、向き合った本棚から視線だけをよこした。木々の調子をたしかめようとするように、収められた一冊一冊を診ていた手が、ちょうど取り出しかけていた背表紙をそっと押しもどす。
「こんにちは」
かなどめ堂ではじめて挨拶が返された瞬間だった。愛想笑いすらなかったが、幸子の頬はお構いなしにだらしなくゆるむ。ようやくこの店に入ることを受け入れてもらえたような気がした。
(なんて、お呼ばれされてしまった時点でもう受け入れてはもらえてるんだけど……!)
勉強場所はどこになるのだろうと、高鳴る胸をカバンごと抱きかかえながらそっと辺りをうかがう。店のなかは本棚ばかりで、レジスターが置かれる唯一の机はうず高く積まれる本で砦になっていてとても二人で囲めるような状態ではない。そうなるとやっぱり奥の生活スペースが有力だ。もしかすると京の部屋に案内されてしまうのかもしれないと、カバンごしの胸は期待にはち切れそうになる。
浮かれきって妄想だけでその場から羽ばたきそうになっている幸子を置いて、京は店の奥の定位置に向かった。羽織りのかけられる椅子の奥、彼女が意識してやまない戸をためらいなく開けやって、そこから手招きする。
(やっぱり……!)
今日は可愛い靴下をはいていただろうかと、そもそも学校指定の白靴下だということもすっかり抜け落ちた頭で漫然と考えながら、ふらりふらりと手招きに誘われる。彼に
『よォ、昨晩はお楽しみだったかァ?』
そして、気づけば彼女は鬼門の前に正座させられていた。
京は入り口を塞ぐようにふすまに背を預けて立っている。楽しいお勉強会を信じていた幸子の目は鬼門を映してぐるぐる渦を巻く。
鬼門と幸子とのあいだには、梅の枝が置かれてあった。昨晩、幸子が渡した
これに関する説教は、昨晩のうちに京から受けていたはずだった。だが鬼門の間をしめる空気は明らかに校長室に呼び出されたときのそれである。彼女は実際に呼び出された経験はなかったが、目の前の鬼門が校長で、うしろの京が担任の先生に思えた。
『この度はステキなモンありがとうございました。俺様の腹も満たされるし、
「そ、それはよかったです……」
『それでだ』
そもそも人間のような顔を持たない鬼門に表情らしい表情はなく、とうとうと話されると京以上に感情が読みとりにくい。
なにを言われるのだろうと固唾を飲んで待つ幸子を、彼はたっぷり間をあけて焦らしたあとで再び渦のまんなかをあけて続けた。
『ちょっと聞きたいことがあってな。おめぇ、この梅どっから拾ってきたんだ?』
うずまきは話し声と同じ速度で回る。
『本物だったんだよ、これ。何年前だか知らねェけど、桜に植え替えられて処分された梅の木ご本人サマだ。いまは常世にあるはずのこいつの枝をどうしておめぇが持ってんだ?』
幸子はあんぐりを口を開けたまま、シャーベットブルーの花を咲かせる枝を見つめた。いまでこそこういった見た目だが、色を変える前はごくふつうの梅の枝だったはずだ。
(常世の梅? でも、これは……)
「き、気のせいってことは……だってこれ、友達からもらったものなの。ふつうに、ふつうの子なんだよ。転校生の男の子で」
「転校生?」
幸子を部屋に通してから沈黙を貫いていた京が、そこではじめて口を開いた。
「今年はすべての学年で転校生などいなかったはずですが」
「えっ」
とっさにふり返った幸子だが、京にうそを言っているようすはなかった。袖のなかで腕を組んだまま、思案げにうつむいている。
そんなはずはないと言いたいのに、身体は凍りついたようで息をするだけでせいいっぱいだった。頭のなかでは白い少年が優しげにほほえんでいる——そのはずなのに、保健室でベッドに腰かける彼が日差しに白く焼かれて見えたように、その顔は光でめちゃくちゃにぬり潰されてあってよく思い出せない。三月の初めに肉屋『とろとろ』で会った記憶も同じように彼の顔だけが白飛びしている。
めまいがひどく、ふとすると意識を飛ばしてしまいそうだった。一方で京と鬼門はなにか納得を得たようで、幸子ごしに互いの目を意味のふくんだまなざして見やっていた。
「異常な穢れの蓄積のわけがわかりました。おまえ、おそらく呪われてますよ」
幸子にとってはとどめの宣告だったが、言った京はいつもと変わらない調子だった。
彼は恒例のように塩の間へうながしたが少女の足はすっかり畳に投げ出されてしまって、自力で起き上がるきざしはない。しかたなく腕を引き上げてようやく立ち上がったものの、焦点はおぼつかないままだった。
結局その日は古典の授業どころではなくなり、幸子は塩の間を出てすぐ家に帰された。
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