第11話 梅に鶯

 しだいにうぐいすの輪郭がはっきりと浮かびあがる。梢の先にとまったまま、青いほむらをまとう羽をゆっくりとひらいて、深呼吸をするように閉じた。青い燐光がひらひらと舞う。閉ざされていたくちばしが薄く開かれて、ほう、と鳴いた。


 またひと雫、涙が炎にとける。


「早乙女くん、待って……その子」


 悪魔ではないと言おうとして、幸子はためらった。

 悪魔と鬼の違いすらよくわかっていないまま、勝手に断言してしまっていいものか不安になったのだ。それでも、どういった存在であれこちらの都合で退治してしまうのは間違っているように思えた。火をまとう鶯に、炎に焼かれた送り狼が重なって指先が凍える。


「悪い子じゃないと思うの」


 そう続けてから、これも正しい言い方ではないような気がしていったん口をつぐむ。いくら自分にとって悪い子でなかったとしても、早乙女にとってはそうじゃないかもしれない。


 そっとしておいて、もう帰ろうと告げたかった。この桜の木のどこかに幸子たちの探し物が隠されてあったとして、それを見つけるために鶯の涙をさらにあふれさせてしまうなら、このままなにもせず帰ったほうがいい。もしくは、関わるならばどちらにとっても笑顔になれるような……それが無理でもせめて傷つくことのない触れあいがしたい。


 どうして鶯が泣いているのかさえ分からない幸子には、いたずらに声をかけたところで傷つけてしまうだけのような気がした。


 早乙女はいまになってはじめて幸子が泣いていることに気づいて、あわててその肩をつかんだ。


「落ちつけゆっこ! おそらく悪魔に同調させられている。気をたしかに持つんだ!」


 肩を揺さぶってもくちびるを噛んだまま首を横にふる彼女に、早乙女はキッと桜の木を睨み上げた。銀のロザリオをきつく握りしめて鶯のもとまで駆けていこうとする、その背をあわてて幸子が追いかけようとしたとき。


 それまでじっと枝にとまったままでいた鶯が、夜を裂くようにそこから飛びおりた。青い光が幸子めがけて矢の勢いで駆ける。


「ゆっこ!」


 迫る火の玉に、幸子はとっさに目をつぶることしかできなかった。


 炎に触れれば熱いのか、それとも冷たいのか、焼かれてしまうのか、痛いのか——歯を食いしばって待つがどの衝撃も訪れず、おそるおそるまぶたを開けばまず、白銀の尾が豊かな毛を針のように逆立てているのが目に入る。


 影に幸子をすっかり覆い隠してしまう大きなからだが、桜の木のほう、羽を揺らしながら宙にとどまる鶯を威嚇している。わずかな挙動も逃さないとばかりにぴんと立てられた耳、いまにも飛びかからんと地面を踏みしめる四つ足、それらを見てもまだぼうぜんとしていた幸子は毛に埋もれるピンク色の首輪に気づいてはじめてその正体を知る。


「送り、狼さん……」


 ほとんど声にならない掠れたつぶやきだったが、目の前の狼は力強く吠えて肯定した。堪えきれずといったように尾の先が揺れる。


 助けてくれようとしたらしい早乙女がロザリオを中途半端に構えたままあんぐりと口を開けていることに気づいたが、幸子自身にもなにが起こっているのか理解できていない。ただ、送り狼が鶯の襲撃から守ってくれたことだけははっきりとわかった。


「ありがとう、送り狼さん!」


 言い終わらないうちに鶯が送り狼の頭上を高く飛びかわそうとする。夜空を青い星が駆けるような一瞬だったが、即座に轟くような吠え声に撃たれて体勢を崩した。すぐにひらりと空へ飛び上がるとそこからまた襲撃をくりだすが、送り狼はその場に立ちはだかったまま短く吠えるだけでその軌道を壊した。


 京の白狐にはなすすべなく燃やされてしまったが、鶯相手には圧倒的な実力差が垣間見えた。おそらく彼が本気になれば、ひょいと跳んでひと噛みでどうとでもなるのだろう。


(そうしないのは、たぶんわたしがそれを望んでないからだ)


 今度こそ、関わり方を間違えないようにしたいと思った。送り狼とも、鶯とも。


「早乙女くん、早乙女くん、だいじょうぶ。心配してくれてありがとう。でも、ごめんね。まだ退治しないで待っててほしいの」


(どうしてこの子は早乙女くんじゃなくてわたしを狙うんだろう……もしかして、送り狼さんのときのようにやってはいけないことを知らないままやってしまった?)


 考えてみるけれど、早乙女がしていなくて幸子だけがしていた行動が思いあたらない。


(そうじゃないなら、私と早乙女くんの違い……性別? 着てる服かな。それとも)


 そっと、手にしていたカバンを足もとにおろしてみた。底が砂まみれになってしまうのもいまは気にしている場合ではない。


 すると鶯の軌道は明確にそちらに逸れた。


「カバンだ!」


 とっさに大声で叫んでいた。

 すぐその場にかがみこんで、幸子はカバンを開けようとする。気持ちばかりがはやって指先は自分のものでないみたいにおぼつかない。どうにかつまんだチャックを引き開けると、そのままカバンごと逆さまにしてしまう勢いで物を出しはじめた。


 この中の何かが鶯を傷つけている。投げ出していく教科書やノートのページが砂で汚れることなどためらいもしなかった。傷つけているものならば、もしかしたら傷を癒すものにもなるかもしれないと、彼女のなかの直感じみたものが叫ぶ。


 そうしてすべてが砂の上に落とされたころだった。


 ほう、と。


 懐かしい友に逢ったようなため息が一つ。


 いつの間にか、幸子のもとから梅の枝が転がっていた。薄暗闇のなか、ふくよかな白い花弁はそこだけ夜を食べてしまったみたいに冴え冴えと咲いて、甘美なにおいを漂わせはじめる。——ほう、と。また、鶯が鳴く。


 幸子を狙って上空にあったからだを、ゆっくりと、本当にそこに友がいるのかたしかめようとするようにおろして梅の枝に近寄る。


「送り狼さん……」


 幸子が呼ぶと、彼は軽く尾を揺らして鶯の前から退いた。


 鶯はいよいよ地面に足をつけると、一歩、二歩と跳ね、最後に枝に飛び乗った。


 ほう、ほけきょ——ひときわ美しく鳴いたあと、大粒の青い涙が梅の花に落とされる。


 涙のほむらは白かった花弁にしみいって、ほんのりとシャーベットブルーに色づけた。そうしてみずからも梅の一部になってしまったかのように、ふと幸子が花から顔を上げたとき鶯はもうどこにも見えなくなっていた。

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