第10話 ぽたりぽたり
夜まで学校にいるならば図書室が安全地帯なのだと、早乙女は得意げに指をふった。
実際に彼はこれまでにも何度かそこで教員をやりすごし、放課後の校舎を歩きまわったことがあるという。たしかに終礼のあと彼の姿が見つからない日があったと思いあたる幸子だったが、まさか一人でそんなことをしていたとは考えもよらなかった。
七時の見回りを逃れたら、あとは教員たちも帰ってしまって校舎は無人になる。図書室の戸を開けておおざっぱに懐中電灯を揺らした戸部が立ち去ると、早乙女はズボンのポケットから取り出した携帯電話をぱかりとひらいて時間をたしかめた。あと三十分、と呟く声は落ちついていた。
戸が閉められたあとも、まだ幸子の心臓は暴れていた。背にする本棚のふちを白い明かりがなめたときは全身の血の気がひいて、そのまま気を失ってしまいそうな心地がした。
とんとんと胸のあたりを叩いて鼓動をなだめながら、細いため息をようやく吐きだす。
「ワルだね……」
「怖気づいたかい、子羊ちゃん」
「ドキドキだけどちょっと楽しいよ」
それでこそ我が友だと、早乙女は渾身のウインクで友情をアピールした。だが前髪が隠して幸子にはウインクだと伝わらなかった。
「窓から見えるかな、青い桜。これだけ暗いんだし燃えてたら遠くからでもわかるよね」
「さて、今宵も悪魔の木は光るか。俺におびえて鳴りをひそめないといいがな」
二人は窓際に移ると、閉じられたカーテンのすきまに顔を入れて校庭を見おろした。
夜にとける桜はいまのところ光らない。肩から力が抜けたのはほっとしたのかひょうし抜けしたのか彼女自身にもわからなかった。
あらためて眺めてみれば、体育館もプールもうさぎ小屋まである、全校生徒で百人にもみたない学校にしては立派な広さの校庭だった。昔は大勢の生徒たちの笑い声で埋められていたのかもしれないと、カーテンの内側に早乙女と自分の息づかいだけを感じながら幸子はぼんやり思い耽る。そのころを知るわけでもないのに、足あとの少ない砂の地面がさみしかった。七時を待つあいだ、少女は空のうさぎ小屋の気持ちを考えてみたりした。
「……よし、いくぞ」
こまめに手のなかの携帯をひらいたり折りたたんだりしていた早乙女が、七時きっかりに合図する。
「校庭のほうか、裏門のほうか、どこの桜がいつ燃えるのかわからない。ひとます敷地の周りを歩きながら探そう。三、四週して見つからなければ俺が少し刺激してみる」
案ずることはない、と早乙女は目の下にえくぼをきざした。きびすを返すなり、待ちくたびれたとばかりに意気ようようと行く。
七時を過ぎればほかに人はいなくなるとは言われたものの、戸の開け閉めも足音も気にしない堂々たる早乙女の背中を、幸子は一挙手一投足に慎重になりながら追いかけた。
月明かりが窓を透かして、廊下には群青の絵の具をひそませた影が念入りに塗り重ねられてあった。そこに絶えず小さな影が飛びこんでいく。彼らを監視するように外を無数のカラスが飛び交っていた。
分厚いガラスに隔てられて聞こえないはずの羽音が幸子の耳の奥にこもる。窓を突き破ってなかまで飛びこんでくることはなかったが、ときおりドン、と鈍い音が鳴った。それが窓に打ちつけられたカラスの頭が割れる音なのか、恐怖にうつむいたままでいる幸子にはわからない。
「こんなにカラスが騒がしい夜ははじめてだ。好かれてるな、ゆっこ」
「す、好かれてるのかな」
のんきに笑う早乙女を胡乱げに見上げた幸子だったが、恐怖を煽るようなことを言われるよりはマシかと思いなおす。
外に出たとたん襲いかかられたらどうしようとおののいたのは杞憂におわった。カラスに覆われる空はいくらか漆黒の天井を低くしていたが、彼らはギャアギャアと互いに揉みあうだけで地上まではおりてこなかった。
月がすっかり隠されてしまったことで校庭に溜まっていた明かりも失せて、見渡すかぎり夜の底に沈んでしまっていた。いま懐中電灯を出すから、とみずからのカバンを開けた早乙女がそこから教科書やら聖書やらアルプスの天然水やらを取りだすなか、暗闇に目を慣らすようにぼんやり辺りをながめていた幸子はふと視界のはしに明かりを見つける。
春の朝空より、コンロの火よりもっと淡いシャーベットブルー。触れたら指先をつたってぽたりぽたりと垂れそうな、涙に似た色。
となりに立つ早乙女のことも、青く燃える桜の木の噂すら忘れて、幸子は心奪われたようにぼうっと見とれてしまった。
(木が泣いている……)
空のうさぎ小屋を想うのに似た、どうしようもない気持ちがせり上がってきて涙がこぼれそうになる。見ひらく瞳にシャーベットブルーが満ちていまにもあふれるところで、彼女はようやく早乙女の腕をゆすった。
ひょうしに、はらりと落ちる。
「早乙女くん、見て、あるよほんとうに」
「ん? ……あっ! 出たな悪魔!」
ようやく見つけた懐中電灯を思わず取りこぼすと、彼は拾うのももどかしいとばかりにそのまま駆け出した。しかたなくかわりに拾い上げてから幸子もあとを追いかける。
向かい風に幸子の涙はさらわれて、火の粉のようにはらはらと舞った。自分でもどうしてこんなにさみしいのかわからず、何度もぬぐおうとするけれどなぜだか袖は濡れない。弾かれた涙は冷たい校庭にあかりを灯そうとするように落ちて、すぐに消えてなくなる。
(へんだ、わたし……まるで誰かのかわりに泣いているみたい。なんにもかなしくないのに、死んじゃいそうなほどかなしい)
そばに寄ると、どうやら桜の花の一つ一つが青い
青く染まる視界のなか、幸子はなにか小さな影がこちらを見つめていることに気づく。
姿かたちがはっきり見えたわけではない。だがどうしてか、彼女にはそれが
少女をひたと見つめる粒のような瞳からは、たえずシャーベットブルーが落ちる。
さみしそうに、悔しそうに。
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