第8話 お詫びのしるし

 ふだんの幸子の授業態度は不真面目とまではいかなくとも、真面目と言いきれるようなものでもなかった。苦手な数学や科学ではうたた寝して先生の話を聞き逃すこともしょっちゅうで、眠気がなくとも板書に飽きればノートのすみに落書きもした。


 そんな彼女でも新学期はじめの授業くらいは、気まぐれを起こして優等生のような面ざしになる。面ざしになるだけで集中力はさほど変わらなかったのが、今年は違った。受験生らしい一心不乱さで京の授業にのぞんだ。放課後かなどめ堂に質問に行くという下心で、自身がうまく理解できていない点などもしっかり洗い出した。


(国語の偏差値が十は上がった気がする……)


 二時間目の英語からは見事に力尽きていた。かなどめ堂の奥で個別に勉強をみてもらう妄想をする浮かれ顔は、彼女の飼い犬にまったく瓜二つであった。


 放課後、さっそく幸子はかなどめ堂へ走り出した。もしかしたらまだ学校にいたかもしれないと商店街にさしかかるあたりで気づいたが、はやる足のままたどり着いたかなどめ堂には『春夏冬』の札が下げられてあった。


 戸に手をかける前に、コンパクトミラーで前髪を整える。自然と昨日のやりとりを思い出してしまうが、もう憂うつに沈むことはなかった。


「こんにちは!」


 傾きかける陽を戸で閉めて、古書店の奥に挨拶を投げかける。


 返事はなかったが、レジスターの奥に白い顔が持ち上がるのが見えた。


 いらっしゃいませもなにもない。彼はどの客にでもそうなのか、幸子にだけ無愛想なのか、今日もほかに客の姿のないかなどめ堂ではたしかめる術はなかったが、たとえば山谷のようなにこやかさで接客する京のイメージはさっぱりわかなかった。


「かなどめさん」


 まっすぐ歩み寄ってくる幸子を、京は黙って見ている。


 彼は萌葱色の着物の下に、襟がボタンで留まる白いシャツと紺のネクタイをしていた。幸子はすぐにそれが学校で見かけたシャツとネクタイの組み合わせだと気づく。まるで教科書に出てくる書生さんのようだとハートにしかけた目を、どうにか正す。


「きのうは、わがまま言ってごめんなさい! せっかく、わたしのこと心配して言ってくれたのに……」


 京の目がわずかにうつむいた。


 手のなかに閉じた文庫本の背表紙を、人差し指がなぞる。


「……俺も、投げやりなことを言いました」


 〝投げやりなこと〟が嫌いになる発言のことだととっさにわからずほうけてしまった幸子だったが、ほかにそれらしいものも思いつかずようやく察する。


「……どう、おまえをなだめたらいいのかわからず……子供のようなことを言いました」


 自省するようにまぶたが閉じられる。


「そ、そんな! かなどめさんはちゃんと説明してくれてましたし、大人でした! それなのに聞かなかったわたしのほうが子供でっ、だからかなどめさんは悪くないです」

「でも、俺の言葉でおまえは泣いたでしょう」


 つまる幸子の返事を待たず、京は机にそびえる本の山の頂上に手にしていた文庫本を乗せながら続けた。


「娘の涙を晴らす言葉を探していたのですが……文豪どもは気障きざですね。なんら参考になりませんでした」


 いびつな段を作るページの束をおもむろに撫でおろす手が、中腹あたりで止められる。


 飛び出す色紙片を指先がつまんで、そっと引き抜いた。


「これで、泣きやんでもらえますか?」


 差し出されたのは、折り紙で作られた小さな狼だった。ピンク色の毛並みで、横を向いて立っている。思わず「わあ!」と声を漏らした幸子の頬も同じ色に輝いていた。


 おずおず両手で受け取ってながめる彼女は、手前でそっと息がつかれる気配があってうかがう。京はようやく気がかりがほどけたというように背もたれによりかかっていた。


(かなどめさんのほうがよっぽどキザだと思うけど……)


 言葉にはせずながめていると、ふいに京の目が幸子を射抜いた。


「それで、今度はなにに遭ったんですか」

「えっ」

「あるいはまだ、なにか隠し持ってます?」


 本当に思い当たるふしがなく、幸子はあわてて首を横にふった。


「ないですないです! 本当に! あったとしてもわたし隠してるつもりなんかありません!」


 身の潔白を示そうと、肩からさげる学生カバンをずいと差し出した。


「なんなら見てください!」


 勢いに押されたようすながらも、京は受け取ってためらいなくチャックを開いた。筆箱から教科書から一つずつていねいに取り出して睨んでは、机の上に重ねていく。


「な、なんかテレビのお宝鑑定士みたいでかっこいいです」

「……近眼なんですよ」


 だから学校では眼鏡だったのかと納得すると同時に、近眼は穢れの視え方にも影響するらしいと奇妙な新情報を得る。


「かなどめさんって、穢れ……が視えるんですよね。鬼とかも、いつも?」

「すべて視えるわけではありません。むしろ、現世に強い影響を与えられるごく一部の鬼に限ります。穢れも、こうして実物をよく視てたしかめないことにはわかりませんし、程度が浅ければ見逃します。能力のある鬼は穢れを隠蔽しますが、そうなっては俺ごとき、どんなに目をこらしても無理でしょうね」


 ふだん石のようにしゃべらない京だが、なにか説明をさせれば板に水を流すようにすらすら話しだすことに気づいて幸子はおもしろくなる。


「わたしの穢れは一瞬で見抜きますよね」

「そんなに穢れては見間違えようがないですから……カバンのなかにそれらしいものは見つかりませんね。ですが、その穢れの量は異常ですよ。なにかあるとしか思えない」


 京は古びた木の椅子を立つと、机周りの本の砦を迂回して早足に幸子に近づいた。


 たくさん話してくれる彼が嬉しくてにこにこ聞いていた幸子は、とつぜん腕を取られておどろく間もなく、鼻先を着物の肩にぶつけた。熱をはらんだ白檀の香が身体を包む。抱きしめられていると気づいたとき、スカートの右側にあるポケットに自分より幾分か低い体温が差し入れられる感触がした。


 薄い布地を隔てて、腿に手の甲が擦れる。


「——かっ」


 喉がふるえて声が裏返る。


「かなどめさんの、えっち!!!」


 轟くような大声に京がひるんだ隙に、幸子はあわてて彼の腕から逃げ出した。転がるようにして本棚を三つ、四つと抜けたあとでいよいよ力尽きてその場に座りこむ。触れられた腿が熱をともされたようで、息もろくにできないほど強く心臓が脈打っている。


「は? 俺は衣服をたしかめようとしただけですが」

「じゃあ、脱いだものを確かめればいいじゃないですか! どうせこのあと脱ぐことになるんでしょう!」

「こら! 里見さんに通報されるからやめなさい!」


(かなどめさんって、かなどめさんって……)


 ふと美世の『コミュショー』という言葉が思い出されたが、これがその域におさまるものなのか判断はできなかった。ただ、彼の反応を見るかぎり自分を女の子として見ているわけではないとわかって、色々なほとぼりの冷めた幸子はとたんに悲しくなってくる。


 せっかく仲直りをしたはずが、また気まずい沈黙を肩と肩のあいだに挟みながら二人は塩の間まで向かうことになった。廊下を抜ける際、ふすまが開けっぱなしになっていた鬼門の間から『ヤったか! ヤったのか⁉︎』と興奮気味の声が聞こえてきて京が台座を蹴り転がす事件があったが、これに関して幸子が鬼門をフォローできる点はなに一つなかった。


 せっかくノートにまとめたはずの質問リストをまったく聞きそびれてしまったことに気がついたのは、家まで送られたあとだった。

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