第7話 みんなの先生

 七村が保健室に帰るよりも、幸子が自分で手当てを終えるほうが早かった。


 美世からは三十分は休んでいろと言われたが、結局その半分ほどもたたず彼女は教室に戻ることにした。京の授業をこれ以上は聞き逃してなるまいと思ったのはもちろん、これといった具合の悪さを感じないまま保健室にいすわる後ろめたさにせき立てられた。


 同じ三年生であるらしい山谷も誘ったが、彼はにこやかに断った。そうして目尻を落とせばやっぱり優しげで、カラスが嫌いだと言ったとき一瞬感じた鋭さなどうそだったのではないかという気さえした。


(カラスに襲われたわたしを気づかってあんなふうに言ってくれたのかな。だとしたら、ちょっと怖いなんて思っちゃって申し訳なかったな)


 ここ数日のあいだに二度もカラスに突撃された幸子だったが、だからといってカラスそのものにこれといって思うところはなかった。死骸を目にすればおびえるが、それはねずみだろうが猫だろうが同じだけの不吉さを感じたはずで、カラスが特別おそろしいわけではない。自分に向かって飛び込んでくるのだけはやめてほしいところではあったが。


「ゆっこ、もう戻ったのか」


 教室に入ってすぐ、ドアの近くの席から早乙女に声をかけられる。


 なにか話の途中だったらしい京も、言葉を切って教壇から彼女を見おろした。


「も、戻りました。あ、机きれいになってる!」

「おれたちと京先生できれいさっぱりかたしときましたぁ」

「小鳥遊はほんと運がねぇよな。ピンポイントでカラスに突撃されるとか」


 からかいながらも心配そうな大助たちに、教卓前を通りながら幸子はお礼を言った。


 教壇に背を向ける前に、京にも向き合う。


「かなどめ、先生も、ありがとうございましたっ!」


 昨日の態度のことも詫びるつもりで勢いよく頭を下げるも、すぐに返事はなかった。


 おそるおそる顔を上げると、わずかに眉を寄せた京と目が合う。なにか注意しようとしてためらっているような表情に肩がすくみそうになるが、そういえばもの言いたげなときの彼はこういった顔をしがちだと気づいて、幸子はおとなしく言葉を待とうとする。


 だが彼がなにか言うより、見守る生徒たちがおかしそうに口を開くほうが早かった。


「ふふ、先生困ってる困ってる」

「小鳥遊、大丈夫。京先生これべつに怒ってるわけじゃないから」

「表情筋カチカチなだけでほんとはいいひとなんよ、このひと」


(し、知ってますが……!)


 声高に教室の中心で叫びたい衝動をどうにか抑えた。幸子が保健室に行っているあいだに、京はすっかり生徒たちに受け入れられたようだった。これほど喜ばしいことはないはずだと主張する理性のまわりで、やきもちのハチマキをつけた本心がブイブイとバイクのエンジンを轟かせる。


 恋とはなんて罪深いものなのだろうと少女は嘆いた。


「——いま、教科書の六ページ。『鶯宿梅おうしゅくばい』です」


 荒れ狂う幸子の心中をよそに、京はようやくそれだけ告げて、また手もとの教科書に目を落とした。


(……先生っぽい。かっこいい。好き)


 最後にまた頭を下げて、席につく。


(なんとかバイ……南高梅なんこうばい?)


 六ページという記憶を頼りに教科書を開けば、ちょうど目に映った文章を京の声がなぞった。すると教室は大きな傘に差されたかのように、ひやりと、静けさにひたされる。雨音の影に歌うような、透明な抑揚が響いた。


ちょくなればいともかしこしうぐひすの 宿はと問はばいかが答へむ」

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