第6話 カラスはお好き?

 保健室の魔女こと七村ななむら三和子みわこが根城に滞在している確率は、美世の体感でおよそ三割だという。急用のときは保健室よりも校舎裏の喫煙所に向かったほうが見つけられるのだと、一年生のころから保健委員を務める彼女は眉に苦労をやどして言った。


 はたして訪れた保健室は無人だった。


 明かりは消されてあったが、校庭に面した窓はすべて開かれてあって、室内には大きな陽だまりができていた。二つ置かれるベッドのそばでは、つまんだら溶けてしまいそうなライムグリーンのカーテンが規則正しいリズムでふくらんだりしぼんだりしている。

 陽をふくんだやわらかな風には、窓のすぐ外の花壇で七村手ずから世話をしている花々のにおいが絡んでいた。それがちょうど消毒液のにおいと混ざりあって、どこかチョコミントに似たふしぎな清涼感を漂わせる。


 慣れない場所にそわそわと落ちつかない幸子のとなりで、美世が盛大に舌打ちをする。


「なにが『保健室の魔女』だ、喫煙所のババアめ……」

「ひええ……」


 およそ三十代には見えない若々しさと愛嬌で多くの男子生徒たちをとりこにする七村だったが、一部女子生徒は『魔女』の呼び名に揶揄をこめていたりする。


 デリケートなお年頃である七村はそのニュアンスをはっきり聞き分けて、いつもの虫も殺せなさそうな天使の微笑みを瞬く間に般若にすげかえるらしい。幸子はその場に立ち会ったことがないので、専らひと美世づてに聞く話ではあったが。


 どこかに七村がいて、いまの美世の過激な発言を聞いていたらどうしようかとおびえる幸子だったが、当の彼女はしれっとしていた。勝手知ったる足取りで、窓際のすみに設置された洗面台のもとまで案内していく。


「とりあえず傷、水で洗って待ってて。あたし一応、喫煙所まで七村探してみっから」

「ううん、いま授業中なんだし、みーちゃんは戻っててだいじょうぶ」

「え、じゃあ手当てだけでもあたしがやる?」

「さすがに自分でできるよ。こういう小さいケガの手当てはやりなれてるからね」


 保健室を頼らなくても、消毒液とばんそうこう程度ならいつでも持ち歩いていた。もちろん生まれついての不幸のたまものである。彼女がこれまで保健室を利用しなかったのは健康だったからではなく、細かな怪我があまりに多すぎたせいだった。


 美世は気の毒そうに眉を落としたが、しぶしぶうなずいた。


「すぐ手当てして、戻って机のまわりかたさなきゃ」

「バカ。そんなんあたしらがやっとくっての。三十分くらいはゆっくりしてから戻んなよ、怖い思いしてんだし許されるだろ」

「で、でもかなどめさんの顔を見る時間が減ってしまう……」

「あんたって子は……」


 深刻な顔をつき合わせた少女たちは、お互いの目を見つめたのちに思わずふきだした。


 ひとしきりわけもなく笑い合ったあとでいよいよ美世が保健室を出ようとする。ふと、扉を閉める直前で彼女はふり返って言った。


「ゆっこのラヴ、なかなかかっこいいじゃん」


 ほら、とビジューが一粒光る人差し指が揺れる。


「『窓から退きなさい!』って」

「あ、ね! ね!」


 興奮気味に幸子はうなずいた。


「でも好きになったらだめだよ!」

「ねーよ!」


 きゃらきゃらとした笑い声のなか、ようやく扉が閉められた。


 息をついたあとで、幸子はさっそく怪我の場所を探ろうとした。けれどついさきほどまで笑っていた名残で身体はあたたまっていて、痛みなどちっとも感じられない。そうはいっても細かなガラスの破片がいくらか肌を擦った感触はあったので、よく目をこらせばどこかしら傷は見つかるはずであった。


 洗面台の鏡をのぞきこむと、黒目がちな大粒の瞳の下、ちょうどなみだぶくろのきわのあたりに小さな赤い線が見えた。それから、ほんのり赤らんだ頬の右側と、彼女としてはあともう少し高ければと祈る鼻の頭にも。


 身体を見おろす。広げた手のひらに傷は見えない。制服が長袖だったおかげで腕も無事なようだった。校則ぎりぎりでおしゃれした膝丈のスカートは、どの程度足を守れたか——そこまでたしかめるのはめんどうで、幸子はとりあえずぱしゃぱしゃと顔を水で洗う。


 ポケットからとりだしたハンカチで傷口を擦らないよう拭いていると、うしろから声がかかった。


「ふくらはぎの裏」

「へ」


 ふり向いて、幸子は目をまたたく。

 ベッドに見知らぬ男子が腰かけていた。


(あ、ううん、見たことある。きのう、早乙女くんと帰ってる途中に会った子だ)


 肩をぶつけてしまった男の子だと思い出す。あのとき白シャツに白ズボンだった彼は、いまも幸子たちの制服とは違う真っ白な学ランを上下に着ていて、午前の保健室のなか彼の姿だけ日に焼けているようにまぶしい。


 柔和な笑顔も昨日のまま、彼はもう一度くり返す。


「ふくらはぎの裏、右足のね。傷があるよ」

「えっ、うそ!」


 あわててたしかめれば、思ったよりもはっきりと赤い血が流れてあった。ハンカチを濡らして拭いながら幸子は彼を見上げる。


「ありがとう、……えっと」

「ぼくは山谷やまたに。山谷あらた

「山谷くん。ごめんね、きみがいたのに気づかなくって、保健室ではしゃいじゃった」


 山谷は首を横にふった。


「幸子ちゃんが謝ることじゃないよ。実はぼく転校してきて、本当は今日から登校だったんだけど、この通りまだ制服が届いてなくってさ。……恥ずかしくて隠れてたんだ。きみたちが来たときも、とっさにベッドの下に」


 あたりまえに名前を呼ばれて、幸子はあれと思う。


「どうして名前知ってるの?」

「え、きみが教えてくれたんじゃないか」

「きのう、ぶつかっちゃったとき? そうだったかな」

「違うよ。そうか、忘れられちゃってたか。三月のはじめくらいのとき、会ったでしょ。本当に覚えてない? 肉屋『とろとろ』の」


(……あ)


 ふと、幸子の脳裏に肉屋『とろとろ』が浮かび上がる。まだ桜も蕾のころだった。店主の里見になにやら責められて困り顔でいた少年が、目の前の彼とぴったり重なる。見ていられずその腕を取って、店の外へとつれ出したのだ。


 ぱかりと口を開いて固まった彼女を見て、ようやく思い出してくれたらしいと山谷はますます笑顔になった。ベッドのはしに腰をずらして、となりに座るよう親しげにうながす。


「この町に高校は一つだからね。きみと同じ学校になれるんだって楽しみにしてたのに」

「ご、ごめんね……あのときからもうこの町に引っ越してはいたの?」


 うなずく山谷のとなりに腰をおろしながら、幸子は無意識にくちびるを尖らせる。早乙女にしろ、この最果ての町にわざわざ引っ越してくる者がいることが純粋にふしぎだった。


「それで、幸子ちゃんはその傷どうしたの」

「ああ、これ、実は……」


 他人事で聞く分なら、カラスに突っ込まれたなんていいネタかもしれない。そう思いながら多少軽快に事情を語れば、山谷はしだいに笑顔をほどいて深刻そうに口を引き結んだ。


 話しおえたあともしばらく重たい沈黙があって、気まずく思った幸子がなにかほかの話題をと考えはじめたころ、ようやく彼は薄く開いた口から短く息を吸った。


「……カラスって、黒猫と同じで不吉の象徴って言うよね」


 笑みの一切が失われた山谷の目は、優しげだった印象から一転、まなざしだけで物を切れてしまえそうな冷たい鋭さがあった。


「ぼくはカラス、嫌いだよ」

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