第5話 京先生

 白希第四高校の三年生たちの、新学期はじめての授業は古典だった。


 去年は学校に国語を専門に教えられる教員がおらず、社会と英語担当がそれぞれ兼務することで補っていた。今年はすべての学年の現代文と古典を京が担当する。昨晩、新たな時間割表をひろげて一時間目が古典だと知った幸子の胸のうちは、楽しみと憂うつとが同じくらいのあんばいで混ぜこぜになっていた。


(わたし、なんて態度をとってしまったんだろう……)


 京の正しさも、自分のためを思って言ってくれたということも幸子はわかっていた。かなどめ堂を飛び出してしばらくは、恋心を軽んじたような彼の言葉に傷つくばかりではあったが、坂を下りながらだんだん涙が乾いてくると、ほとぼりの落ちついた心臓はとたん後悔に冷やされた。


 本当に嫌われてしまったかもしれない。そう思うと、楽しみでしかたなかったはずの京の授業がおそろしくなる。もしも授業中に目が合って、冷たくそらされてしまったら——想像だけで幸子の目からはまた涙がこぼれそうになる。


 少女の不安をよそに、教室のドアが開けられた。


 雑談の声がぴたりと止む。若く見目の整った新人教師には誰もが興味深々だった。もちろん幸子も窓際のまんなかあたりから姿勢よく見つめた。目が合うことを恐れる気持ちより、教壇に立つ彼を一目も逃したくない気持ちのほうが優った。


 あまり歩幅の広くない、音を立てない足運びは着物に慣れたもののの歩き方だった。教壇に立つまで一言も発することなく、抱えられた教材が置かれる音が静かな教室に響く。


「——はじめまして。今年度、国語を担当する京です。では教科書の」

「ま、待った待った先生、ちょっと」


 声を上げたのは最前列の中央、ちょうど教卓の手前に座る奥永おくなが大助だいすけだった。小柄でねずみのようにキィキィとしゃべる大助は、休み時間はたいてい男子の集団に隠される。クラスではマスコットのように可愛がられるムードメーカーの少年だ。


「せっかく新しい先生なんだし、もっと京先生のこと知りたいんですけど!」

「とか言って、おまえ古典受けたくないだけじゃね?」

「ちげえよ! 言っとくけどおれ、お前より古典の成績いいからな!」


 うしろの席の花島はなじま圭太けいたにからかわれて口を尖らせた大助に、クラスメイトたちはけらけら笑い声を立てた。二人はいつでもこの調子で、去年の文化祭ではお笑いコンビを組んだこともある。つられて幸子も笑うが、教壇の京はぴくりともしなかった。


 ひとしきりの笑い声がおさまっても、彼はそのままだ。


(だ、だいじょうぶかな、かなどめさん……)


 怒っているのか、困っているのか、生徒たちが不安げにしはじめたところで京はふと背を向けた。幸子は一瞬、彼がそのまま帰ってしまうのではないかと立ち上がりかけた。


 だが京は教壇をおりることはなく、チョーク入れから一本を取りだす。


 ひかえめに黒板を叩く音がした。固唾を飲んで見守る幸子たちの前で——『かなどめ悠人ゆうと』と、おそらくはそう書かれたはずだった。ふりがならしきものも丁寧にふってある。


「せ、先生……読めないです」

「……薄かったですか。それとも、文字が小さい? すみません、チョークなんて十年ぶりくらいに持ったものですから」


 たしかに筆圧はさほど強いものではなかったが、文字の濃さや大きさにこれといった問題はなかった。だがチョークで書いたとは思えない大胆なくずし字は、高校生たちが読むにはあまりに達筆すぎた。


「京先生……えっと、あれなんて言うんだっけ、普通の文字」

楷書かいしょだよ楷書。バカ」

「バカじゃねえよ! あ、京先生、楷書でお願いしてもいいっすか」


 大助の言葉に、京ははじめてうろたえたような表情を見せた。思わずといったように「あ」と声を漏らして、またチョークを構えなおす。


 次に書かれた『京悠人』は、今度こそ誰もが読み取れた。


「……すみません。楷書はあまり得意ではないので、読みにくかったら言ってください」

「いや読めます読めます!」


 食い気味の大助に、またクラスに笑い声が起こる。


 胸をおさえて彼の文字を見つめる幸子を、そっと美世がふり返った。


「ゆっこのラヴ、だいぶコミュショーでない?」

「かわいい……! かわいいからいいの……!」


 生徒とのぎこちなくも頑張りのにじむやりとりは録音して大切に保管したかったし、書かれた名前は黒板ごと切り抜いて持ち帰りたいほどだった。心を曇らせていた不安などすっかりどこかへいってしまって、いまの幸子はときめきに支配されていた。


 ふと、京と目が合った。すぐにそらされてしまったが、そこには気まずさのようなものがにじんでいた。少なくとも冷ややかな印象はなく、幸子は人知れず息をつく。


 その直後だった。


「——っ、」


 そらされたはずの京の視線が幸子を射抜く。焦りのにじんだ瞳が揺れた。


 彼が教壇を駆けおりるのと、幸子を映す窓に黒い影が迫るのとは同時だった。


「窓から退きなさい!」


 京の声にかぶせるようにして窓ガラスの割れる音がした。


 女子の悲鳴が上がる。美世と早乙女が「ゆっこ!」と叫ぶ。


 幸子は声も出せず、かろうじて席から立ったことで大きな破片の直撃を逃れた。


 ガラスがきらきらと光の粒をひからせる椅子には、真っ黒なカラスが息絶えていた。


「ゆ、ゆっこ怪我は!」

「だだ、だ」


 美世に手をつかまれたことでようやく我にかえった彼女だが、ちぢこまる舌はうまく動かない。首を横にふることでどうにか無事を伝えようとしたところに、京が割り込んだ。


「彼女を保健室まで頼めますか」

「わ、わたし大丈夫です、せ、んせ……」


(保健室に行ったら、かなどめさんと離れちゃう)


 そんな幸子の心中など考えるまでもなく察する美世は半目になって彼女の腕をつかんだ。有無を言わさぬまなざしは、親友の心配をそんな浮かれた思考で無碍にする気かと咎めながらも真剣に案ずるもので、さすがに申し訳なくなって肩を落とす。


 そうして教室をあとにするあいだも、背中にはカラスの視線が鋭く刺さっているような気がした。

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