第4話 かなどめ堂にて
お昼ごはんを食べると、またすぐに幸子は家を出た。
ドアを開けても死んだカラスとは目が合わない。そのことにそっと安堵して、町に踏みだす。午後を迎えたばかりの空は高く、しぼって飲めばミントシャーベットの香りがしそうだった。胸いっぱいに吸いこんでから、意気ようようと坂を上りはじめる。
学校指定のローファーは、二、三センチかかとの高いすみれ色のパンプスに。クリーニングしたてだったセーラー服はちょうどいまの空を映したような淡い水色のワンピースに。すこしでも大人っぽく見られそうなものを選んで、懸命におしゃれした少女のくちびるは、いつか駅前の薬局で買った色つきリップクリームでさくらんぼ色に染まっている。
(かなどめ堂、あいてるかな。あいてますように)
ワンピースの腰もとでお気に入りのポシェットが揺れる。財布のなかには五百円あった。古本がいくらほどするのか知らない幸子でも、せめて一冊は買えるはずだと思った。
桜並木の遊歩道を抜けて、バス停しかない広場をバス待ちの行列を横目に曲がる。
商店街のアーチ看板をくぐれば白希商店街表通り。そこから左手側、三つ目のシャッターを曲がると裏通り。どちらも閑散とした景色は変わらないが、営業中の希少な店々のうちおもに食べ物系が表通り、それ以外が裏通りと一応の区分けはあった。
この日の裏通りは、ふとん屋と婦人向けの服屋がシャッターを上げていた。
ふとん屋『ちりめん』を営む老婦人
つきあたりを本棚とともにふさぐ古書店かなどめ堂も『春夏冬』の札を下げていた。
そこまで弾む足取りでいた幸子はいったん立ち止まって、ポシェットから取り出したコンパクトミラーで前髪をととのえた。風に吹かれればすぐあらぬ方向に跳ねようとするわがままな毛先にはいつも悩まされている。
幾度か指ですいてようやく前髪の分け目に納得すると、今度はリップの色が薄いように感じて、少し重ねる。
恋する少女のおめかしに終わりはない。永遠に店の前で鏡と睨みあうわけにもいかず、いよいよ覚悟を決めて古びた戸に手をかけた。
「こ、こんにちは!」
肌にひやりとまとわりつく、古びた紙とかびの甘やかなにおい。燻らせた香木がかすかに絡む。おずおず閉められる戸が木枠を打つ音で、かなどめ堂はどこからも切り離された。
扇風機の音ばかりが際立つ静寂に彼女の訪問ははっきりと響いたはずだったが、店主の声は返らなかった。だが不在というわけではない。本棚と本棚の隙間からのぞくレジスターの向こうに人影がある。
たった二粒の電球では影のほうが濃く、机に頬杖をついてうつむく顔までは判然としなかったが、そこがあきらかに店主の定位置らしいということをのぞいても幸子には彼が京であるとすぐにわかった。シルエットを見ただけで確信していた。なんといっても世界にただ一人の想いびとである。
「かなどめさん」
呼びかけられて、ようやく京は顔を上げた。
ひらいていた文庫本に、机のすみに置きやっていた桔梗の折り紙を挟ませる。
「……えっと、学校、びっくりしました! まさかかなどめさんがうちの学校の先生になるなんて。やっぱり国語なんですね! わたしかなどめさんの授業、いまからとっても楽しみで……よ、よかったら今月の読書感想文のために、おすすめの本とか」
「——おまえ、」
坂を上りながら必死に考えてきたセリフは、おもむろに口を開いた京に遮られる。
「なにに遭いました?」
「えっ」
質問の意味がわからず、とりあえず今朝から会ったひとの顔を順に頭に浮かべはじめた幸子だったが、京はそんな彼女の脳内が見えていたかのように首を横にふる。
「穢れが。それも、昨夜からにしては尋常でないほど。鬼に遭いましたか」
幸子はあらためてまた今朝から会ったひとの顔、それから出来事を順に思い浮かべた。だが送り狼のようにあきらかに怪異とわかるものに遭った覚えはなく、カラスの死骸も見ない、彼女の人生では珍しいほど平和的な一日のはずだった。
口を尖らせたまま唸る少女に、京は表情を動かさないまま言う。
「では、鬼にまつわる物を持っていますね?」
質問の体をなした断定だった。
思わず幸子はびくりと肩を跳び上がらせた。見ひらかれた目は本棚の林を泳ぎはじめるが、首は小さく否定を示した。身体のすべてで嘘をついていることを表す彼女に、京の左目がすっと細められる。
追求の言葉はなかった。文庫本に添えられたままの左手も、机につかれた肘も、指先一つ微動だにしない。睨むというほどでもない静かな視線の圧に、幸子の心臓はときめきとは別の理由で悲鳴を上げはじめる。食いしばられたくちびるはしだいに波打ち、さりげなく手にかばわれていたポシェットはやがて両腕に抱きかかえられる。
「——だっ、だめです! これは、送り狼さんの形見なんです!」
「……やっぱりおまえが取っていたんですね。いつの間にやら見えなくなっていたから、てっきり自然と消えたものと思っていたのですが」
京はひときわ大きなため息をついて、レジスターごしに左手を差し出した。
「渡しなさい」
その手から逃げるように、幸子は一歩後ずさった。ポシェットのなかには、先の焼ききれたピンク色のリードが入っていた。
バレればきっと怒られると思いながら、あのとき彼女は拾わずにはいられなかった。家に持ち帰ったあとポシェットから取り出しわすれたまま、今日こうしてかなどめ堂に持ってきてしまったことを後悔する。
「だって渡したら、やっくんに食べさせちゃうんですよね。だいじょうぶですよ、これおうちに持って帰ってからべつに怖いこととか起こってないですし」
「おまえの目に視えていないだけで、身体は確実に穢れの影響を受けています。手にしたままではまた厄を呼びよせる。……妙な愛着を持ってしまったようですが、あれは鬼ですよ」
そんなことは幸子も承知していた。
(でも、送り狼さんは最初からわたしを傷つけるつもりなんかじゃなかった)
うつむいてポシェットを抱きしめたままの彼女に、京も黙りこむ。わずかに寄せられた眉のあいだで、どういった思考があったのか幸子に知る由はない。
やがて男の薄いくちびるが開かれた。
「……嫌いますよ」
ただ一言、それだけで少女の瞳からは涙が決壊する。
みっともなく顔が崩れてしまう寸前に、どうにかポシェットからリードを出してレジスターの上に置いた。片側がわっかになったそれが、重さでこちら側に落ちるような音が聞こえた気がしたが、そのときにはすでに幸子は京に背を向けていた。
(ひどい……ひどい! わたしの気持ちを知ってて、そんな言い方するなんて)
いけないことをしているのは自分のほうだとわかっていたからこそ、そんな言葉で彼が自分をあしらおうとしたことが、あしらえると思われたことが恥ずかしくていたたまれなかった。
泣き声を漏らせばますます子供っぽいと幻滅されてしまいそうで、幸子は外に出て戸を閉めるまできつくくちびるを噛みしめたままでいた。可愛くぬれたはずの色つきリップクリームは、そのせいですっかりとれてしまっていた。
踏み出そうとしたかかとの靴ずれが今さらになってひりひりと痛んで、また涙がこぼれる。
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