第11話 お清めしましょう
坂を上りながら、だんだんと家が近づくことをさみしく思う幸子だったが、前を歩く京は彼女の家どころか住宅街すら足早に抜けてしまおうとしたのでうっかり別れそびれてしまう。風にたもとを揺らす背中は竹のようにすらりと伸びていて、なんとはなく声をかけることがためらわれ、そのうちにかなどめ堂まで着いてしまった。
幸子がいることに言及することはなく、京は店の裏手にある玄関扉の鍵を開けた。
戸を引いたあとではじめてふり返ると、当たり前のように中へはいるよううながしたので、うろたえながらも幸子は「おじゃまします」と足を踏み入れた。
「神社を通るでしょう」
唐突に言われたので彼女はなんの話かと目をしばたかせる。
気にせず、京は脱いだ革靴をそろえながら続けた。
「学校に行くとき、買い物に行くとき、犬の散歩に行くとき」
「あ、はい、通ります」
「おかげで、少しずつではありますが穢れが清められていたのだと思います。あの神社よりおまえの家が坂の上にあったなら、いままで無事でいられたとは思えません」
あまり自然に家に上げられたために、幸子は自分が忘れていただけで最初からそういう話だったかもしれないと思った。スニーカーをそろえて、ひそかに胸を高鳴らせながら京の靴のとなりに置く。
「そんなにギリギリの状態だったんですか、わたし」
「鬼門がよだれを垂らしていたでしょう」
渦のまんなかにあった穴を思い出そうとしてみるけれど、そもそも存在そのものがあまりに衝撃的すぎて、黒く塗りつぶされたそこからよだれが垂れていたかどうかなど見えてはいなかった。だが美味しそうと評されたのは忘れられそうにない。あいまいにうなずいた幸子を見やったあとで、京は光の漏れるふすまに手をかけた。
『よォ、待ちくたびれたぜ! みやげはあんだろなァ?』
開けるなり、京はたもとからミックスジュースを取り出してほうり投げた。
美しい放物線を描いて、それは鬼門の穴に吸いこまれる。
『——はんッ、これっぽちデザートにもなんねェ』
「た、たた、食べ、食べ……!」
口もとをおさえて震える幸子を、大きな目玉がぎょろりと見上げる。
『目の前にこんなごちそうがいてこりゃあひでェや』
「喰いますか?」
『おめぇが少女誘拐で捕まってもいいならな』
「証拠をおまえが跡形もなくのみこむんですから、捕まることはないでしょう」
『それもそうか』
ケタケタ嗤う鬼門とぴくりとも笑わない京とを見比べて、幸子の目からはいよいよ涙がこぼれそうになる。部屋の壁に飾られる供物のように自分はこれから生贄にされるのだと思うと、彼女の頭は暗幕をおろされたように真っ暗になったが、舞台袖からは「悪いひとだったなんてずるい! えっちだ!」と黄色い歓声が上がる。
「たっ、助けておいて生贄にするなんてひどいですっ! ほんのちょっとだけ、好きになりかけてたのに……」
本当はちょっとどころではなかったがそこは乙女心が見栄を張った。
じりじりと後ずさりながら睨み上げる彼女を、京は肩をすくめて見おろす。
「なにを言っているんですか。冗談に決まっているでしょう」
「——じょ、冗談でも言っていいことと悪いことがあります!」
(そんなまじめな顔をして冗談を言うなんて)
暗幕は瞬く間に上がって、頬をピンク色に染めた幸子が躍り出る。
あくまで彼女はむくれ顔を保っているつもりだったが、実際はあっけなく目尻を落としていた。
「取ってくるものがあるので、しばらく待っていてください。この部屋にいるあいだは、鬼に襲われることはありませんから」
「……えっと、神社みたいなかんじですか。鬼門、さんって、やっぱり神さま?」
『神さま! 俺様が?』
壁がひび割れるような勢いで鬼門は嗤いだした。すぐに京が台座を逆さにしたので、渦とともに声も埋まる。
『——そいつが言ったろ、俺様は……オイ、戻せしゃべりにくい』
「近所迷惑ですから二度と大声を出さないでくださいよ」
『近所に人なんていねェだろ。そもそも俺様の美声は誰にでも届くモンじゃねェし』
「ときどき里見さんから苦情がくるんです」
『あれは地獄耳すぎる』
肯定も否定もせず、京は部屋を出ていった。
廊下が軋む音が遠ざかっていくのを見送った鬼門は、あらためて幸子を見る。
『俺様は鬼の門。鬼でも神でも人でもなく、ただの穴だ。当然、穴だから何だってのみこむことができる。なかでも好物は厄! 他人の不幸ほど美味いモンはねェよ』
じっと見つめられて、不幸な少女の肩はおびえた。
『次点で鬼だな。マ、そういうわけだから鬼はみんな俺様を怖がって近づかねェの。ナワバリってやつ。この町の生態ピラミッドの頂点にいンのが、俺様ってコト』
「結界とか、張ってるわけじゃないんですか」
『鬼じゃねェんだから、ンなことできねェよ』
神ではなく『鬼』ならできるらしいということに、彼女はおどろく。
「もしかしてかなどめさん、わたしの厄、みたいなものどうにかするためにここまでつれてきてくれたのかな……」
『そりゃそうだろ。……なにアイツ、なんも説明しねェでつれてきたのか』
「でもそれって、やっぱりわたしがやっくんに食べられちゃうってことになるよね」
『待て、やっくんて誰だ。まさか俺様のことじゃねェだろうな』
「子供を常世に落とすとか、俺は鬼ですか」
幸子の背後から呆れた声がした。
ちょうど戻ってきたらしい京が、腕に抱える白の着物を彼女に差し出した。
(ま、また『子供』って言った……!)
思わず受け取りながらも幸子はショックを隠せず茫然とする。
「『塩の間』に案内します。そこで清めなさい」
「し、しおのま」
肩を軽く押されたことで、ようやく彼女の足が動き出す。
そのまま廊下へ案内しようとする京の背中に向かって、鬼門が言った。
『襲うなよ』
京はちらともふり向かず、幸子をつれて出ていく。そろりと顔を見上げた彼女は「ひえっ」と喉をひきつらせた。
『背中、忘れんなよォ』
廊下のつきあたりで立ち止まる京が舌打ちした。
「……ここが塩の間です」
すぐにふすまが開かれて、彼の手で明かりが点けられる。思いがけない舌打ちと鬼門の言葉に戸惑っていた幸子は、とたん目の前に広がった光景に思考を奪われた。
どうしたって、見上げてしまうのは天井だった。網代天井の、細かな矢羽根模様に編まれた杉の隙間という隙間から塩が落ちている。それらは畳をすっかり覆い隠してしまっていたが、ふしぎなことにどこも均等に二、三センチほどしか積もっていない。幸子の目には、部屋がまるごとスノードームにおさまっているかのように映った。
「ど、どうなってるんですかこれ!」
「それは俺にもよくわかりませんが」
家主はきっぱりと答えた。
「浴びれば穢れを清められます。そこの部屋を使って構いませんから、ひとまず渡したものに着替えて、穢れをすべて落としたら戻ってきなさい。俺は鬼門の間に、」
着替えの場所にすぐ右隣の扉をうながしたあと、すべて言い終えないまま背を向けてしまおうとした京の袖を思わず幸子はつかんでいた。
「背中って、なんですか!」
引っかかっていた鬼門の言葉が、予感を鳴らす。
「も、もしかしてですけど! ぽぽ、送り狼さんとのとき、なにかあったんですか」
「……なにも」
「じゃあ背中、み、見せてください! ほんとに、なにもないのか……あの」
力強かった声はみるみるしぼんで、真っ赤な顔がうつむく。
けれど袖をにぎる手は離れなかった。
「し、下心じゃないんです」
微動だにしなかった京の眉が、思わずといったように持ち上がった。
かすかに聞こえた吐息が笑みだと気づいた幸子が見上げると、すでに彼はすまし顔に戻っていた。
だが鬼門の間に向けていたつま先を返し、塩の間にあがっていきながら乱雑に衿を引っぱると、左側の腕だけを袖から抜く。あらわになった肌色は長く陽を浴びていない不健康な色味をしていたが、肩や腕には古書の束を持ち運ぶのに耐えられるほどの筋肉が見てとれた。
うなじから肩甲骨にかけて、獣の爪に引っ掻かれたような赤黒いしみがあった。血が固まったあとに似ているが、かさぶたのように隆起してはおらず肌の色自体が変わっている。
「触れないよう。障りがあります」
手を伸ばした幸子が見えていたように、釘を刺される。
「……まあ、手本にはなりますかね」
天井から落ちる塩を手のひらに受け止めると、彼はそれをみずから黒の傷にかけ、指先でこする。するとしみは薄れて、色を吸ったように塩がどす黒く染まった。
「ただ穢れを清めるだけならば浴びるだけで問題ありませんが、鬼に触れられてしまったらこのように直接こすりつけて落とします。塩の色が変わったでしょう。肌の色がもとに戻るまでではなく、塩が変色しなくなるまで続けることが肝要です。おまえも浴びるとき、塩の色の変化をよく見るように」
「……いつ、ですか。それ」
饒舌だった京はとたんに口をつぐんだ。
黒ずんだ塩を手から落としながら、ふり返らず言う。
「昨日」
「う、うそ下手ですね」
今度はじっとりとした目が幸子を睨んだ。だが彼女は受け取った着替えをきつく胸に抱きしめて、両足を踏みしめ、負けじと彼の目を見かえしながら言った。
「ありがとうございます! わたし、わたし、やっぱりかなどめさんのこと、大好きです!」
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