第10話 転んではいけない

 再び手を繋いで鳥居を出た幸子たちは、電柱の足もとに座るぽぽちゃん——送り狼を見つけた。あちらも同時に気がついたようで、綿毛が風に吹かれるような勢いで駆け寄っていく。首から伸びるピンク色のリードが道路にまっすぐ線を引いた。


(……い、いつも通り、いつも通りに)


 彼がぽぽちゃんであることを疑っていないそぶりを見せつけようと、幸子はぴろぴろと口笛を鳴らしながらリードの先を拾い上げた。腕を組んでようすを見守っていた京は目を半分にしたが、送り狼はぽぽちゃんのかたちを崩さないまま、彼女の影にそっと寄り添いはじめた。


「身体、どこに落としたかわかったかもしれないです」


 家を出てから坂を下るあいだは、両手とも自由だったことを思い出す。


 自宅を通りすぎると、おぼろげだった行きの記憶はとたんにはっきりとしたものになった。出がけにカラスの死体と目があってしまったこと、ミキサーの底にこびりついたジュースの残滓のようなあと味を忘れたくて、てきとうな歌をうたったこと。


 ミックスジュースを買おうとした自販機にちょうどさしかかる。幸子はケースに並ぶ十本のいちばん端を無意識に見やった。やっぱりミックスジュースがいちばんだけれど……と彼女はそこから一本ずつ視線を流していく。珈琲、緑茶、コーラ、サイダー……かたわらに立つ京を最後に見上げて、幸子は思案した。彼ならば、やっぱり緑茶を選ぶだろうか。それとも意外と炭酸飲料などを好んだりするのだろうか。


 尋ねてみようかと気をとられる幸子は、このとき足もとをまったく見ていなかった。


 坂道のまんなかに、転がることもなくじっと横たわっていた缶ジュースを彼女のスニーカーがためらいなく踏んだ。たっぷり中身のつまっていたそれは潰れることなく、幸子はつるりと足をすべらせてしまう。


 とっさに京が手を引っぱり上げたことで、迫る地面に顔を打ちつけることはなかった。だがすでに足を浮かせていた彼女は体勢を整えることもできず、その場に座りこむようにしりもちをついてしまう。


「痛い!」


 陽の光を存分にしたためたアスファルトは温かかったが、打ちつけたおしりはひりひり痛んだ。思わず涙のにじむ視界に、かけらも凹みのない缶ジュースが映る。


 『ミックスジュース』のロゴを見て、彼女の眉は力なく垂れた。もしかしたら、取り損ねたジュースがいまになって転がってきたのかもしれない。そんなありえないことも、自身なら起こり得てしまうことを彼女は知っていた。ふだんならこれくらいでは気にも留めないはずが、立て続けの異常事態に疲弊した心はあっけなくうつむく。


(……だめだめ、暗くならない)


 気を取りなおそうと持ち上げた視界が、ふと影に包まれる。


 白檀の香りを帯びる熱が背中に触れていた。


 思考を止めた幸子の後ろ髪に、かすかに息をつめる気配が触れた。


「——まったく」


 掠れたつぶやきは、轟く唸り声にかき消される。


 はっとしてふり向いた幸子は、鼻先を京の胸に強かにぶつける。思わず閉じてしまった目をひらくと、藤色の肩ごしに、雨月の夜のような漆黒をしたたらせる獣と目があった。敵意でも殺意でもない衝動に射抜かれて、彼女の喉を乾いた風が切る。


「怯えても、転んでもいけないと言ったはずですが」


 京は腰の帯からなにか抜き取った。複雑に折られた紙のようなものと幸子が見とめたとき、すでにそれは指先を離れて獣のほうへ流れていた。


白狐しらぎつね


 京が名を呼ぶと、紙切れは瞬く間に見えなくなる。


 代わって現れたまっしろな獣は、行儀よく座りこんでなお住宅街のどの家々よりも空に近かった。幸子の背丈ほどある送り狼がまるで子犬のように見える。


 白狐と呼ばれた通り、毛なみは早朝の雪のようで、ふくよかな尾と尖る耳は狐の特徴であった。どこか京にも似た切れ長の目が、意をうかがうように彼を向く。


「……俺たちに、干渉できなくなる程度で構いません」


 尾の先が不服そうに揺れた。片耳の先がぴくぴくと震える。


 だが京は静かに首を横にふった。


「関わり方を間違えたのはこちらです」


 ため息をつくように首を落としたあとで、白狐は今度こそ送り狼を見おろした。


 茫然となりゆきを見守っていた幸子は、そのとき送り狼の尾が股のあいだに入りこんでいることに気づいた。四つ足で地面を踏みしめたまま、依然として背を向けるそぶりはないが、獣としての本能はたしかに彼を恐怖させているようだった。


(……送り狼さん)


 幸子が京の肩ごしに身を乗り出そうとしたのと、白狐が一息の炎を送り狼に吹きかけたのとは同時だった。炎は狼の毛に絡みついて、すぐに姿が見えなくなるまで燃え広がる。

 悲痛な鳴き声が炎のなかから幾度も響いた。いてもたってもいられず駆け寄ろうとした彼女を、京が手を引いて止める。


「狼さん!」


 やがて炎が消えると、送り狼の姿はどこにもなくなっていた。


 先の焼き切れたピンク色のリードだけが落ちているのを見て、幸子はいよいよ涙を堪えられなくなる。


「し、死んじゃったの?」

「いいえ。穢れを幾ばくか清めただけです」


 立ちあがろうとした京は、手を繋いだままの幸子がうずくまって泣いているのを見やって、しかたなくまた腰をおろす。


「わ、わたしが転んじゃったから、あの子は本当は、襲いたくなかったのにあんなふうになって……だから燃やさなくちゃいけなくなったって、こと、ですよね」

「そうですね」


 まじめに肯定した京は、見ひらかれた幸子の瞳からさらに涙があふれるのを見て眉を引きつらせた。


「……足もとを見ず歩いたのは、愚かだと思いますが」


 おろか、と幸子が悲痛に漏らすのにかぶせて、彼は続ける。


「落ちていた缶は、おそらくほかの鬼の仕業です。送り狼のものではない穢れの痕跡がありますから」

「ひええ、じゃ、じゃあいまも命狙われてるってことですか!」

「いまも、というかずっとですね。おまえのように厄にまみれた人間は、鬼にとっては格好の餌でしょうから。これまで襲われなかったのは送り狼がいたおかげで、」


 京は途中で言葉を切った。目の前の少女は、すでに蛇口の取手が壊れてしまっているように泣き止むきざしがない。


 二人に背を向けて素知らぬ顔でいた白狐が、尾で京の背に軽く触れた。石のようになっていた彼がふり向いたときには、気まぐれな彼女はすでに姿を消していた。


「……ほら、俺が送り狼になりますから。もう行きますよ」


 投げやりにそう言って今度こそ立ち上がれば、ぽかんと口をあけた幸子もつられたように立った。涙はぴたりと止まっていた。


(かなどめさん、怒ってるんだと思ったけど、そうじゃなかったのかな)


 なんとなく気まずい沈黙を挟んで歩きながら、幸子は横目に彼をのぞくが、作り物めいた横顔からはなにを考えているのかうかがうことはできなかった。


 公園に着くころ、空は鮮やかな影をやどしたオレンジ色に染まっていた。きっともとの空も同じ色をしているに違いないと、幸子はふしぎと確信した。あれだけ人に埋め尽くされていた海辺はがらんどうで、UFOだけがぽつんと残されている。


 折れた桜の木を見て京は眉をひそめていた。それから浜辺をちらと見おろして、UFOの周りに置かれた立ち入り禁止のコーンが張られているのを睨みつけると、さっさと浜へおりてそれらを回収して戻ってくる。


「身体、ありましたか?」


 木の周りにコーンを張り終えたところで京が呼びかける。


 腰丈のフェンスに寄りかかって空を見ていた幸子は、笑顔で彼をふり向いた。

 安堵のにじむ瞳に、暮れる空の色が映るのを見て、京もようやく肩を下ろした。

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