第9話 ラ、ラ、ラ、ラ

 幼稚園に通いはじめたころの幸子の夢は『歌って踊れるお姫さま』だったが、年少の秋ごろには『犬を飼っている魔女っ子』に変わっていた(その当時ぽぽちゃんはまだ家にいなかった)。お気に入りの絵本と出会うたびころころ変わる将来の夢は、絵本が少女漫画になってからもしばらく影響を受けつづけ、中学生ほどになってようやく『すてきな恋をすること』に落ちついた。


 気まぐれに歌手を夢みたことはあれど目指したことはなく、歌の巧拙も人並みではあったが、幸子にとって歌うことそれ自体はごく日常であった。


(歌……歌、って、なにを歌えばいいんだろう……)


 ふだんであれば考えずともくちびるが勝手にくちずさむはずだった。だがいま彼女のくちびるはひび割れしそうなほど乾燥して、舌は口蓋にはりついたままぴくりともしない。お得意の即興ソングどころか、知っているはずの歌一つ浮かび上がらない。


 それでもどうにか京に応えようと、幸子は懸命にメロディを探した。苦手な数学の試験でだって、ここまで真剣に頭を悩ませたことはなかった。甲斐あって、やがて光明のように一つのメロディがひらめく。


「ラ、ラ、ラ、ラ」


 知っている歌のはずだったが、とっさに歌詞は出てこなかった。サビの一歩手前のような起伏を、幸子はふるえる舌で幾度かなぞる。


「ラ、ラ、ラ、ラ」

「う、す、べ、に」


 平坦な声が、幸子の歌声に重ねられた。


「ラーララ、ラー」

「染、まる、海に」


 なぜその歌なのかと呆れるように片眉を下げた京が、幸子を見やる。


 彼女はようやく、これが高校の校歌であることに気づいた。


「薄紅、染まる海に〜」


 ワンフレーズくちずさむと、忘れていたはずの歌詞がおのずと続いた。


「空は歓喜す、黎明を〜」

「もっと楽しげに、なんならスキップもしてみなさい」

「わ、我がっ、友垣っ、げに気高き、花!」


 その場にひょこひょこと飛び跳ねながら歌う幸子のとなりを、京は着物を乱さない品のいい足取りで添う。繋がれた手が上下に振られるたび、藤色の袖が揺れる。


 直前まで緊張状態にあった幸子はあっけなく息切れしてしまって、歌声は切羽詰まったものになる。リードの感触を気にする余裕を失ったことで、身体の内側を支配していたはずの恐怖はいつしか薄れていた。そのおかげか、彼女の首のうしろを刺していた禍々しい気配も鳴りをひそめたように感じられた。


 京が不意に前方を指さす。


「そこの神社に行きます。あと少しです、そのまま」


 桜並木を過ぎて、あたりはすっかり住宅街だった。もうしばらく下ると幸子の家が見えてくるはずである。京が示した神社は、建ち並ぶ住宅同士の隙間にひっそりと埋もれるようにしてあった。


 一軒家ほどの広さもない。道路から直接階段が伸びていて、たった五段上がったところで一対の狐の像と赤い鳥居が待ち構える。すぐ奥に、木々の影になるように祠がぽつりとあって、境内にはほかに建物どころか神社の名前を表すものすら存在していなかった。当然無人であるわりに小綺麗なのは、少人数ながらも活動が盛んな町内会によるまめな手入れのおかげだった。


 自宅から数軒となりにある神社なので、幸子とて存在は知っていた。けれどこれまで足を止めたことがなければ、まして鳥居をくぐったことなどあるはずもなく、このときはじめて彼女は境内に足を踏み入れた。


「白希、白希、白希第四高校〜」


(歌いながら鳥居をくぐるって、なんだか抵抗があるなぁ……)


 ようやく祠の前まで着いたところで、京が繋いでいた手をほどく。


「もういいですよ。息を整えて」


 言われてすぐ、幸子は深呼吸をくり返した。潜水からようやく顔を上げられた心地だった。額をハンカチでぬぐいながら、霊体でも汗は出て、息切れもするらしいということを今さらのように思う。ちらりとのぞき上げた京は涼しげな横顔をしていた。


 それから、彼女ははたと両手をひろげた。


 リードなどどこにも見当たらない。そのくせ手のひらには紐が食いこんだあとがくっきりと残っていた。


「かなどめさんは、気づいてたんですか」


 幸子が連れ歩いていたのは、はじめからぽぽちゃんではなかった。


 彼女の手に刻まれた赤いあとを見おろしながら、京は静かにうなずく。


「——あれは、送り狼です」

「……えっと」

「おまえがいま考えたものとは違いますよ。鬼の一種……妖怪と言ったほうが、想像しやすいですか」


 妖怪、と幸子はつぶやいた。リードのあとがじりじりと痛む。


「送り犬とも呼ばれます。後ろをぴたりとついてきて、もしも転んでしまったり恐れるそぶりを見せれば、たちまち襲いかかって食らいつく。ですがこちらがなにも気づかないふりでいれば、逆に道中を守ってくれるともいいます」


 だから京は唐突に歌うよううながしたのだと、幸子はぽんと手を叩く。スキップまでする必要があったのか疑問がちらとよぎったが、彼が言うなら正しかったに違いないとすぐに思い直す。


「じゃあ、わたしがかなどめさんのところまで無事に辿りつけたのって」

「ええ、送り狼が守っていたのでしょう。……飼い犬に化けてまで付き添っていたわけですから、あれにははなからおまえを襲うつもりはなかったようですね」

「そう……そうだったんだ」


 鳥居の向こうにぽぽちゃんの姿はなかった。ほかに犬や狼らしきものも見えない。ずっと守ってくれていたらしい彼を恐れてしまったことが申し訳なくて、あれだけ怖かったのがうそのようにまた会いたいと思ってしまう。


「ここを出たら、まだいるかな」

「送り狼は家に帰るまでついてくるものですから、きっと。さすがにここまでは立ち入れないようですが、待ち構えてはいると思いますよ」


 ほっと息をついた幸子に、京は「ですが」といくらか強い語気で釘を刺す。


「あれは鬼で、我々とは異なる理のものです。好かれているからと、安易に気を許すべきではありません」

「でも、でも、怖がってもだめなんですよね」

「恐れるか懐くかのどちらかしかないんですか」

「な、懐くというか、守ってくれてありがとうございますって」

「あれは神のようなものではなく、鬼ですよ」


 京の態度は頑なだった。


 くちびるを尖らせた幸子はふと鳥居そばの狐を見て、とんでもないことに気がついてしまったとばかりにその目を輝かせた。


「——かなどめさん! ここ、鬼が立ち入れないってことは、神さまは本当にいるってことですよね!」


 初詣は毎年のように運命の相手にめぐりあえるようお祈りする幸子にとって、祈りを聞き届けるものがたしかにいたということは大事件だった。京と出会えたのは、いよいよ神さまが願いを叶えてくれたからなのかもしれない。


「いや」


 京は言いかけたが、さきほどまでの怯えようがうそのようにはしゃぐ彼女を見て口を閉じた。ひとまずいまの幸子ならば、送り狼に襲われることはなさそうだと思われた。

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