第8話 同じ町に住むひと

 忠告にこめられた深刻な響きは、そのとき手のひらの熱に思考のすべてを奪われていた幸子にかわって、彼女の耳が勤勉に受け止めていたらしい。冷たい銀色の商店街を抜けたのち、順調に桜並木の遊歩道にさしかかったあたりでふとその声色がよみがえった。


 町にただ一つの古書店の主人を、幸子はそっと肩ごしに見上げる。


(かなどめさんって、いったい何者なんだろう……)


「人ですよ。おまえと同じ」


 すぐにふり返った京が淡々と言うので、幸子は腰を抜かしそうになる。


「こ、心読みました?」

「漏れてましたよ」


 自身のくちびるを人差し指で示すと、またくるりと正面を向いてしまった。


「うちには鬼門がありますから。それで、幾分こういった事情に詳しいだけです」

「鬼門、さんって、昔から一緒に住んでいるんですか?」

「……あれは住むというより在るといったほうが正しいですが、そうですね」


 幸子は納得してうなずいた。


「じゃあ、家族なんですね」


 見た目は禍々しく、出会い頭に幸子のことを美味しそうだと発言するなど彼女にとっては恐怖しきりではあったけれど、京とのやりとりから気やすさがうかがえたのも事実だった。そして鬼門に対する京も、同じだけのくだけたようすがあった。


 鬼門を京が祀っている、あるいは京が鬼門を封じ込めているというような力関係は見えず、幸子は彼らに自分と福乃を重ねた。だからこそ家族という言葉を選んだのだが、京は思ってもみないことを言われたとばかりに目を丸くして、長いまつげをしばたかせる。


(あ、あれ、やっぱり呪われてたりしたのかな……へんなこと言っちゃったかも)


「いいえ、たしかに俺たちに上下関係はありませんが……へんなことを言いますね」


 また漏れていたらしいと口をふさいだ幸子を、京は口角を片側だけわずかに引いてからかうように笑った。とたん激しい動悸に襲われた彼女は口もとをおさえていた手のひらに眉のあたりまでうずめて、指の隙間からうるむ瞳をそっとのぞかせる。


「こ、この気持ちも、漏れちゃってますか……!」

「なに言ってるんですか。そろそろ海が見えますよ」


 繋がったままの手を持ち上げて、京が坂の下を指さす。


 なだらかな傾斜で伸びるアスファルトの両側は、住宅街の軒がぎこちない階段になって、思い思いの色でいらかを光らせていた。幸子たちが見通すことのできるいちばん奥、ぼんやりと珊瑚色に照る屋根と屋根とのあいだに、空を映した春色のマーブル模様が溜まっている。水面にはくだけたゼリーのきらめきが揺れていて、早く下りてこいと二人を誘うようだった。


(誘ってるのは、海じゃなくて宇宙人だったりして)


 銀色の巨大などら焼きは、いまは建物の影になっているようで目にできない。


「かなどめさんはUFO、見ましたか?」

「……いいえ。人でごった返していたでしょう」

「コロッケのおじさんがなにかやってましたよ。商店街に飾るんですかね」

「コロッケ……肉屋の里見さんか。あのひとならやりかねないでしょうね」


 京の口から知っている人の名前が出たことで、ようやく幸子は彼が同じ町に住む人間なのだと実感できた気がした。


「里見さんっていうんだ。この前、お店に蛇がはいりこんだの助けてあげたら、それからコロッケ五十円負けてくれるようになったんです。いいひとだけど、お店に行くたび『きみは大人になっても町から出て行かないでくれよ』って」

「……あのひと子供にまでそんなこと言ってるんですか」


 共通の話題が嬉しくなった幸子はあえて里見の話を引っぱろうとしたが、ふいうちで食らった『子供』扱いにしょんぼりと肩を落とす。


「……UFO、本物ですかね」

「どうでしょう、鬼門も専門外のようで」


 京はたいして興味もなさそうに首を傾げた。


「オカルト、好きなんですか?」


「えっ、うーん、好きってほどじゃないです。でも今日は寝坊しちゃって、ぽぽちゃんのお散歩ができなかったから……」彼女の口調は次第にいぶかしげに、おぼつかなくなっていく。「……することがなくて、ふくちゃんに、妹にUFOでも見てきたらって……あれ、えっと……」


 あれ、おかしいな、あれ……と朦朧としたつぶやきがくり返される。少女の身体に満ちるどろりとした不安が、汗となってにじみはじめた。たしかに今朝、幸子は寝坊をしてぽぽちゃんの散歩をさぼってしまったはずだった。春休み最終日だったのに、と福乃がからかったのを思い出す。寝坊した姉にかわって、彼女がぽぽちゃんの散歩をしたのだ。


 握るリードはいま、幸子のうしろに伸びている。ピンク色の紐は彼女の手のひらに食いこんだりゆるんだりしながら、たしかに何かの気配を伝えてくる。


「……か、などめ、さ、さん」


 鼓動と同じ速さで浅い呼吸をくり返しながら、幸子は渇く舌をもつれさせる。


 頭の芯が思考を埋めるように膨張する。

 それ以上考えることを阻もうとするように耳鳴りがつんざく。


 だが予感は、いまも幸子の背後にはっきりとした質量をもって集約していく。


「う、う、うしろ」


 リードの先が重たくなる。小さな歩幅を表すように軽快だった振動がだんだんと間延びする。


 ワンピースごしに獣の生ぬるい息遣いが触れたとき、いよいよ彼女は恐怖に立ちすくみそうになった。だが京が強く手を引いたために、もつれながらも足を踏み出す。


「止まらず、前を向いたままで」


 鋭い囁きが幸子の耳朶を刺す。


「歌いなさい」

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