第7話 手のひらに海
かなどめ堂を出ても、幸子の目に映る空は相変わらず不思議な色味を湛えていた。あとから店を出た京にたしかめるが、彼は首を横にふった。
すみれで押し花をしたようなカラスの影と色をとどめない雲に覆われて、太陽はどこにも見当たらない。濃い影と眩い光がめまぐるしくひらめくさまは陽が沈む寸前に似ていたが、時計を身につけない彼女に正確な時間を知る術はなかった。
「かなどめさん、は、あの」
施錠を終えた京が鍵を袖にしまいながら視線を流すも、幸子は赤い耳だけを彼に見せてもじもじとうつむいている。「い、いまが何時かってわかりますか」自然と尖ってしまうくちびるが後ろめたいのは、そう尋ねることで彼が携帯電話を取り出すかもしれないという下心あってのことだった。
京は帯に手をやると、そこから銀の懐中時計を引き出した。慣れた手つきで蓋を開けて、片目を細めながら文字盤を読み上げる。
「……四時十分ほどですね。じきに陽が暮れますか」
(かっこいい……!)
あわよくば連絡先を教えてもらえないかと期待していた幸子のもくろみは外れたが、京を見上げる視線は足もとの桜よりずっと濃いピンク色に染まっていた。
「まだお店閉める時間じゃなかったですよね。それなのにわざわざ一緒に来てくれて、あ、ありがとうございます……!」
戸に下げられていた『春夏冬』の札は、裏返すと『閉店』の文字が書かれてあった。ようやく『
「開けていても客など来ませんし、用事のある者はこちらが追い払ってもやってくるものですから。そもそも、おまえ一人ではどこへも辿りつけないでしょう」
(胸がぎゅってして死んじゃいそう……)
紡がれる一音一音にすら脳みそが溶け落ちそうになる幸子にとって、初対面のはずの京がなぜこうも彼女の理想そのままの姿かたちをしていたのかなどもはや瑣末な問題だった。
「かなどめさんは、け、携帯電話とか持ってますか」
高揚のままに尋ねたあとで、すぐに恥ずかしくなってまくしたてる。「えっとわたし、ついこないだ携帯を車に轢かれちゃって、いま持ってないんですよ。いまっていうかもう一週間くらいないままで、それはそれで使わないことに慣れちゃってあんまり不便じゃないかもなって。友達も、家から電話かけられますしね……」むりやり引き伸ばした話はかえっていたたまれなさを増幅させて、しどろもどろに視線をさまよわせた彼女はぽぽちゃんを見つけるなり逃げるようにそちらへ駆け寄った。
リードをポールから外してやりながら、背後に京が立つ気配に肩をすくませる。
「……よくこれまで生きていられましたね」
不審がられるか、下心に気づかれて嫌われてしまうかと怯えた耳に落とされたのは、予想に反してかすかな温度の感じられる声だった。
「携帯は持っていません。俺も、家の電話で大抵の用は足りると思います」
「え、えへ……おそろいですね?」
「ええ」
差し出された手を、幸子はまじまじ見つめてしまった。
「はぐれないよう」
幸子はとっさに両手でみずからの口をおさえた。まろびでようとしたあらゆるものを、すんでのところで飲みこむ。背丈はあるががたいがいいとは言えない彼の手のひらは思いのほか厚く、揃えられたしなやかな指には紙に切られた傷があちらこちらに線を引いていた。
ポシェットからハンカチを取り出して、オレンジ色をしたタオル地に念入りに汗を吸いとらせたあとで幸子はおそるおそる手を伸ばす。中指の腹が京の手のひらのくぼみに触れたとたん、乾いた肌のかすかな摩擦にふっと気を遠くしかけた。これはいっそキスと変わらないのではないかと茹だる頭で思う。
「ごめんなさい……たぶん汗が海みたいに出ます」
「ではすべって手が離れないよう、よく握っておきなさい」
「ひゃい……」
「この手を離さない限りは、鬼の道に囚われることもありません。万が一があればまた鬼門のところで落ち合いましょう。そうならないに越したことはありませんが」
言いながら、綿の抜けたぬいぐるみのようになっている彼女の手を信用ならなそうに見やって、彼はみずからの長い指を幸子のそれに一本一本しっかりと絡めた。親が子に風船の紐をくくりつけてやるような手ぎわだったが、いたいけな少女は卒倒しそうになる。
「来た道を順に辿ってゆきましょう。うちに来る前はどこにいたんです?」
「……う、うみ……ゆーふぉー」
「……ああ、例の」
納得したようすでうなずいた京がまず足を踏みだして、手を引っぱられて幸子が、最後にそんな彼女のリードに繋がれるぽぽちゃんの並びで一行は歩きはじめる。
はるか頭上を泳ぐように飛び交うカラスを見上げながら、幸子はしばらく気もそぞろに彼のあとを追っていた。けれどそのうち自分以外の体温に慣れはじめると、ようやく視線をおろして軒を並べる店々を見やった。銀色のシャッターはすそを桜の花びらで飾っていたが、花の層は幸子のスニーカーほどもない。人の道に近いところを歩けている証なのかもしれないと、ほっと息をつく。
「不幸を寄せやすい自覚は?」
ふいに尋ねられて、彼女は一瞬自分に聞かれているものと思わず目をまたたかせた。
「——えっと、あります。さすがに、小さいころからずっとだったので」
京は前を向いたまま、瞳だけを彼女によこす。
「〝視た〟ことはありますか」
「見た、って」
「いまのような異常に遭遇したことは」
幸子が首を横にふると、思案するような沈黙のあとため息が落とされた。
「生まれついて、穢れを溜めこみやすい体質なんでしょう。そのせいで厄を呼び、さらに穢れを負う。いまのおまえは人というより鬼に近い……だから身体を落としたんです」
「お、鬼……」
思わず頭に片手をやった幸子だったが、角は生えていなかった。
「ここまで達してしまう前に、鬼が視えてもおかしくないのですが……おそらく相当な鈍感だったおかげで紙一重に難を逃れていたようですね」
「えっと、褒められてるやつですか?」
「ええ」
「ありがとうございますっ」
頬を染めて顔を上げた幸子は、思いがけず真剣なまなざしに射抜かれて固まる。
「——ですがこの一件でとうとう知ってしまった。知らないからわからないでいられたものが、これからはおまえの目にもはっきりと映るようになります。認知されれば、鬼はあちらから忍び寄ってくる」
京は幸子を捉えたまま、強く手を握りしめて言った。
「気をつけなさい。なにに呼ばれても、決して応じてはいけません。この町は、もうおまえのよく知るところではないのですから」
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