第6話 どちらかといえば魔術師
幸子のヒーローは決して王子さまらしい風貌はしていない。ファンタジーの物語に出てくるならば魔術師(『魔法使い』ではなく『魔術師』というところに彼女のこだわりがある)で、闇の魔法を得意とするようなちょっぴり影のある顔つきをしている。
どんなに陽が差しているところでもひんやりとした夜を湛える髪から、まよなかの湖畔のような瞳がのぞく。いつでも必要以上に見ひらかれることのないまなじりには憂いのなまめかしさがある。左目の泣きぼくろは涙を忘れた彼の孤独の証だ。背の高い彼のためにできる限りかかとを上げて、あわよくばこの手でかなしみを拭いとってあげたいものだと幸子は常々考えていた。
行儀良いくちびるがわずかにひらかれて、葉がこすれるような囁きで幸子を呼んだ。
(……あ、泣きぼくろに触れられそう)
月を映さない湖畔の瞳が幸子を見ていた。夢うつつで伸ばした指がほくろに触れると、思わずといったように左目だけがまばたかれる。思っていたよりいくらか目もとは細く、肌はあたたかかった。
「あれ?」
幸子はそのまま頬に指をすべらせて、想像より固く薄い肉をぐにぐに揉みながら、これまで感じたことのない妄想の質量と感触にだんだん違和感を覚えはじめる。
妄想じゃないかもしれない。ようやく気づいた彼女が動きを止めるのと、彼の柳眉がぎこちなくひきつるのとは同時だった。なおも触れたままでいる幸子の指をひっつき虫をはがすような手つきで退けたあと、男は藤色の着物の足もとを軽くおさえながらすっと立ち上がる。
着物という発想はなかったと茫然とする幸子を、冷ややかなまなざしが見おろす。
「目が覚めたようですね」
「——わあああっ! ごごごめんなさい現実だと思わなくって」
弾かれるように飛び起きた幸子は勢いのままあとずさりをして、後ろに置かれてあった物に腰を強かにぶつけた。
『わぎゃあ!』
直後、そんな悲鳴とともに大きな石が転がるような衝撃が畳を揺らした。
ふりかえった彼女は、畳に円の半分を埋める渦を目にした。
『神体をひっくりかえすなんざ爆厄不敬だぞ! 戻せ!』
「おおおおばけ! おばけ! 夢じゃなかった! 夢じゃなかった!」
今度は渦から逃げるように腰をすりながらあとずさりした幸子は、背中を男にぶつけたところでようやく気を失う前の出来事を思い出した。不安と恐怖に溺れそうだった彼女の思考は、突如現れた理想のヒーローにあっけなく破壊されたのだった。
「わかりました、わたしは死んだんですね。あなたはお迎えにきた天使さま」
幸子は男のほうに正座をして、両手を合わせる。
「それでうしろのおばけが悪魔」
『アア?』
いまだ畳に埋まったままの渦の不満は届かない。
「……俺は天使ではありませんが、あれが悪魔なのは、まあ、遠からず」
『おいコラ』
「
わずかに目もとを細める、不思議な表情での自己紹介だった。さきほど直に触れて彼の表情筋の硬さを知った幸子は、どうやらなんらかの感情を表そうとしているらしいということだけを察したが、それが笑顔なのかはたまた怒り顔なのか判断しかねた。
(かなどめ堂……ここって『春夏冬』ってお店じゃないんだ)
歳は二十代のなかばほどに見えた。妄想よりもはるかに無表情な彼に、幸子は胸をおさえて静かに悶える。ときめきは重たかった心にハチミツのようにしみた。
「た、
妄想、とはさすがに言えずどもる彼女に、京はわずかに左の目尻を揺らした。
(……あっ! わかる! いまのは笑った顔だ!)
笑みは一瞬で過ぎ去ってしまった。京は顔を上げて渦を見やる。
「あれは『鬼門』です。鬼の門で、鬼門。神体だのとほざいてましたがそんなありがたいものじゃありませんよ」
『それ以上俺様を馬鹿にするとおめぇの恥ずかしい話あることないこと吐くぞ!』
ひときわ声を荒げて抗議した鬼門の、暗雲の渦に隠れるようにして錐台のかたちをした石の台座があった。京はため息をついたあとで近寄ると、横向きに倒れてあった錐台をもと通りに置き直す。
「鬼門って、あの、縁起悪いぞっていう」
「ええ、普通は方角を差しますが、この町においては場所……点なのです。鬼の世界とこちらの世界とを、ただ一点繋ぐ門」
着物のすそをさばきながら膝を折った京のとなりに並んで、幸子はおそるおそる鬼門を見た。台座はほとんど渦に隠れて見えないが、おびただしい漢字がみっしりと彫られてあるようだった。
「あの……じゃあ、もしかしてここが鬼の世界、ですか?」
『んなわけあるかよ』
幸子はなかば確信を持って尋ねたが、あっさりと一蹴された。
『そいつが言ったろ、俺様は白希町の鬼門なんだよ。俺様がいるってことは、ここが白希町ってことだ。鬼の世界がこんなのんびりしてていいわけねェだろ』
「でもここ、わたしの知ってる白希町じゃないんです! 歩いても歩いてもおんなじ道だし、桜の花びらが大雪みたいにつもってるし……空の色もなんかおかしくて、カラスいっぱいで、わたしぽぽちゃんと一緒にようやくここまで辿りついて……」
そこまで話して、彼女はぽぽちゃんを外に繋いだままでいることを思い出した。
「わたし、さっき気絶しちゃってからどのくらい経ってますか! 外にぽぽちゃん待たせてて」
「ほんの数分ですよ。……飼い犬ですか?」
「はい。あの、ポメラニアンです」
調子の変わらない京に、幸子のこわばった肩はゆるゆると下がっていく。
「……どういった状態でしょう。鬼門、すこし外をのぞいてきます」
(まつげ長い……考えてる顔かっこいい…… 〝かなどめ〟ってどう書くんだろう)
ぽうっと頬を染めて京を向く幸子を、鬼門の目玉がぎょろりと睨む。
『あん? 気づいてねェのか悠人。こいつ、霊体だぞ』
「霊体? 死んでいるということですか」
「……えっ?」
ハートのかたちに変わりつつあった目が遅ればせて見ひらかれる。
「まっ、待ってください死んでないです! 死んでなかったはず、たぶん! ていうか、ここ鬼の世界じゃないんですよねっ!」
『現世でも霊くらいうじゃうじゃいんぞ。おめぇが迷ってたのは、そういう本来この世のもんじゃねぇ『鬼』の通り道だ。だから『鬼門』である俺様のところに辿りつけた。その間にほかの鬼に喰われちまわなかったのは、運が良かったな』
運が良かった、など幸子は生まれてはじめて言われた。
決して素直にはうなずけない。そもそも死んだ記憶がなければ、実感もない。
「だって、だって、か、かなどめさんに触れますよわたし……かなどめさんは生きてるひと、ですよね……?」
彼の頬にすがろうとした指は、途中でつかまれた。触れた指には温度がある。
『あぁ、こいつは特例だ。つうか別に死んでるなんて言ってねェぞ』
鬼門はあっけらかんと言う。
『あれだあれ、あの、あれだよあれ。あー、幽体離脱』
「ゆ」
幸子の頭のなかで、双子の芸人が身を離しながら楽しげにくり返した。
「……幽体離脱って、眠ってるあいだに魂がにゅるってするやつですか」
『そう、魂がにゅるってするやつだよ。まだ生きてるからそうやって足が地を離れずいられんだ。おめぇ、どっかに身体落っことしてきたんだろ。そんだけ厄がたまってりゃ、くしゃみのひょうしに抜け出たっておかしくねェぞ』
(くしゃみ、したっけな。しなかったっけ)
このごろの寝不足といやな感じを忘れるための妄想で、彼女の記憶はほとんどおぼろげだった。あの奇妙な町のなかを今度は自分の身体を探してさまよわなければならない……知らない土地に身一つ投げ出された心地で、幸子はすっかり途方に暮れてしまった。
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