第5話 ぐるぐる嵐

「わ、まっくら!」


 店のささやかなあかりは、ひらいた戸の奥をわずかに照らすだけだった。


 幸子は両手を壁につけて、電気のスイッチがないか探りながら慎重に歩を進める。


 靴の裏に細かな砂のざらつきを感じた直後、なにかをつま先が蹴飛ばした。


「ごめんなさい……っ」


 とっさに小声で謝るも、暗闇のどこからも返事はない。へっぴり腰をその場にかがませながらそろそろと手を伸ばすと、人差し指の先に革のつるりとした感触が触れた。


(……たぶん靴、かな。ここ玄関っぽいし)


 引き寄せてかたちを探りながら、やはり靴だと再確認する。ずしりとした重量と、とうてい幸子の手には収まらない大きさから、どうやら大人の男性のものらしいとわかった。足もとにもう片方が置かれているのをたしかめて、つま先をそろえて並べる。


 立ちあがろうと一歩前に出したすねのあたりに段差がぶつかった。ここがたたきのきわのようだ。履いていたスニーカーのかかとに指をひっかけて、音を立てずに脱ぐ。


「お、じゃまします……」


 何度目になるかもわからない呼びかけとともに段差を上がる。


 冷えた廊下が靴下ごしに伝わって、小さなかかとがびっくりして持ち上がった。


 奇襲におびえるリスの繊細さで辺りを見まわしたまつげが、暗闇のカーテンに爪で細く傷をつけたような光の筋を見とめた。そろりと近づいて腕を伸ばせば、手のひらになめらかな和紙の感触が伝わる。にわかにきざした期待と緊張に指先が震えた。これはきっとふすまで、あかりが漏れているということは人がいるかもしれない。


 よし、と吐息が覚悟を唱える。


「失礼します!」


 勢い付けて開けたふすまから、真っ白なあかりが決壊する。


 暗闇に馴染みつつあった幸子の目を光は容赦なく焼こうとする。ぎゅっと閉じたまぶたの向こうに、たしかに気配を感じた。誰かがいる。思わず、ひざから力が抜けそうになる。


 その場にうずくまってしまいたくなるのを堪えて、幸子はようやく見つけたそのひとに助けを求めようと、どうにか目をこじ開けた。光に慣らすようにしばたかせる。


 そうして目の当たりにしたものは、天気図で日本列島に迫る渦を思い起こさせた。


 ぐるぐると気流を巻く暗雲のかたまりは散々ニュースで見せつけられた昨晩の嵐に似ていた。目の前のそれはもちろん関東地方を覆いつくすような大きさはなく、幸子にはちょうどぽぽちゃんと同じくらいのように見えた。


 〝それ〟を囲うように、壁際は統一感のない物々にみっしりと埋められていた。上等なホテルに飾られるような壺や、虎か象かわからない木彫りの置き物、不自然に髪の長い日本人形、瞳の割れた西洋人形、綿の減ったうさぎのぬいぐるみ……まるでこの部屋自体が大きな祭壇で、それらはすべて中央の禍々しい渦に捧げる供物であるかのようだった。


 渦のなかにテニスボールほどの目玉が埋もれている。


 虹彩がはっきりとわかる黒の瞳はひたと幸子を見据えていた。


 視線を重ねたままで、彼女はつとめてゆっくり深呼吸をくり返す。喉もとまでせりあがってきていた悲鳴はなんとかとどめた。頭のなかでは、いつかテレビで観た『クマにでくわしたときの対処法』を反すうしていた。


(目を合わせたまま、少しずつあとずさりして……)


 だが思考は唐突に両断される。


『おめぇよ、めちゃくちゃうまそうなにおいすんなァ』


 部屋の空気がみじろぎした。人形の首が揺れ、奥の壁に立てかけられていた背の高い絵画が体勢を崩す音が鳴ったが、幸子の意識は目の前の渦に完全に囚われてしまっていた。


『つむじから爪先まで厄がたぁっぷり、最後までチョコたっぷりな棒菓子も目じゃねぇくらい爆厄イケてんじゃねェか。オイ、ちょっと、ここまで来てみろよ』


 あとずさりの足がもつれて、彼女はしりもちをついた。とたんに渦は、まんなかにぽっかりあいた黒い穴を広げたり縮めたりしながら『ダッセェ!』と嗤う。低い、男性の声だった。だが人間の声とは聞こえ方が異なる。たしかに渦の中央から聞こえているはずなのに、身体の内側に直接響くような違和感がある。


 もはや逃げ出そうという気すら少女の身体からは消え失せてしまった。天井までなみなみとみたされた恐怖のなか、ようやく見つけられた〝会話ができる〟相手にこれまでのことを相談してみようかという混乱した考えさえ芽生える。降り積もった恐怖は、化け物にすらすがりつきたい気持ちにさせた。


 だがいくらふりしぼろうにも、喉は心臓がつっかえているように声を通さない。


(わたしこのまま、ここで食べられちゃうの?)


「何事ですか」


 涙が目のふちを越えようとしたとき、ため息まじりの声が背中に落ちた。


 耳もとに囁かれるような低い声。聞き覚えはなかったが知っているものだった。


 おそるおそる顔を持ち上げて声の主をたしかめた幸子は、大粒のどんぐり眼をこぼれんばかりに見ひらくと、それきりふっつり意識を手放してしまった。

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