第4話 パステルピンクの町

 てのひらに巻きつけていたリードを引かれる感覚で幸子は我にかえった。


 ピンク色のロープは公園の出入り口に向かってピンと張っていて、その先でぽぽちゃんがしっぽを揺らして催促する。


 白い毛玉のまんなかに、新品のボタンのように黒々と艶めいている瞳は、坂を下っただけではまだまだ物足りないと主張していた。


 幸子はいまだ人でごったがえす浜を見やった。波打ち際で遊ばせようにも、人混みにぽぽちゃんを巻きこめばあっけなくぺしゃんこにされてしまうだろう。


 一向に人のすく気配のない海辺から空へ顔を持ち上げて、まるまっていた背中を伸ばす。


「いこっか」


 声をかけるとぽぽちゃんは嬉しそうに舌を出した。


 それから幸子を先導するようにぐいぐいとリードを引っぱる。


 海に背を向けてしまえば、UFOだの宇宙人だのといった非日常は夢のように頭のうしろへ遠のいていって、行く先には見慣れた散歩道がどこまでも続く。


 散った桜に隅々まで染められた道路は相変わらず人や車にすれ違わない。


 似た造りの住宅と桜ばかりが景色を繋ぐ。


 口もとをおさえながら幸子はまた一つ大あくびをした。


(足が重たいなぁ……そろそろ桜並木が見えてもいいころなのに)


 幸子の白いスニーカーが一歩蹴るたびに、彼女のくるぶしのあたりまでつもっていた桜の花びらが舞い上がる。


 歩くごとに花びらの層は厚みを増していって、ほどなくふくらはぎの半ばまで達する。


 今度こそ住宅街を過ぎて桜並木に辿りついたかと上向きになったまつげはがくごと落ちた花にぶつかって、おどろいた足が止まる。


 目をこする幸子のまわりを、ぽぽちゃんは雪遊びするように駆けまわりながら景気よく花びらを散らせた。


 背伸びをして道の先を見通しても、まだ住宅街は途切れそうになかった。


 ふと不安になってふり返っても似たような景色が伸びている。


 なにか気持ちの悪い違和感を覚えて、幸子はよくよく行く先と来た道の景色を見比べてみた。


(あれ……どっちから来たんだっけ)


 似ているどころか、見れば見るほどまったく同じ景色が幸子を境にして続いていた。


 鏡のあいだに立たされているような居心地の悪さに、さきほどまで思考を浸していたまどろみが血の気とともにひいていく。


 生まれた頃から住んでいるはずの町が、まるで知らない場所のように見える。


 頭の上をカラスの鳴き声が旋回する。


 一匹や二匹ではない。


 気づいてしまえば耳を覆いたくなるようなけたたましさのなか、どうしてこれまで平然と歩けていたのか。意識がはっきりするごとにカラスの声が増えていく。


 空を仰げばおそろしい光景を見てしまいそうでうつむいた幸子は、ひざに届こうとする花びらの層に悲鳴をあげた。


「——ぽぽちゃん!」


 リードの先は完全に埋まっていたが、幸子の呼びかけに元気な鳴き声が返った。


 すぐに花びらが舞い上がって、綿毛のような身体をぶるんぶるんと震わせたぽぽちゃんが頭だけをのぞかせる。


 いつもと変わらないつぶらな瞳に、幸子は泣き出しそうになってしまった。


「どうしよ、ぽぽちゃん……わたし」


 迷子になってしまった、とはおそろしくて口にできなかった。


 くちびるを噛んで涙をこらえる主人をしばらくしっぽを揺らしながら見つめていたぽぽちゃんは、やがて散歩の続きをうながすようにリードを引っぱった。


 異常な量の花びらも空を埋めつくすカラスも知ったことではないとばかりに、いつもと変わらない意気揚々とした足取りだ。


 リードに引かれて一歩二歩と足を進ませた幸子は、そのマイペースさに少しだけ勇気をもらって、また自分の意思で歩きだす。


 リードをきつく握りしめたままおそるおそる見上げた空はたっぷりの水にピンクとラベンダーを溶かした不思議な色合いをひらめかせた。


 そこにカラスのかたちをした薄紫の影が無数に飛んでいる。


 言いようのない不気味さはありつつも、舞う桜の花びらとあいまってどこか幻想的で、幸子の肩からわずかに力が抜ける。


(いつかこんな日が来る気がしてた)


 UFOや幽霊に関する特番を観れば『いるのかも』と思い、夜中に一人でトイレに行けなくなって起こした福乃から呆れ顔で諭されれば『いないのかも』と納得する幸子だったが、自分の身にふりかかる不幸の先が現実とはわずかな膜で隔たれたどこかへ通じているだろうことは確信していた。


「薔薇色の馬に乗って〜」


 わずかな震えを残しつつ、いつもの明るさをとり戻した歌声が響く。


「すぐに迎えにきてよ〜」


 ここが不幸の終点なら、いっそ恐れることはない。

 そう言い聞かせて、幸子はおそるおそる目をつむった。


 足は休みなく歩かせながら、薔薇色の馬に乗った王子さまをまぶたの裏に描く。

 王子さまはあまりタイプじゃないけれど、やっぱりピンチに迎えにきてくれるシチュエーションは一度くらい妄想しておくべきだろう……そうして次に目を開けたときはいよいよ彼がそこに立って救いの手を差し伸べてくれるのだと、そんなことは現実逃避にしかならないとわかっていながら、一心に祈る。


(きっと次にぽぽちゃんが鳴いたら、それが現実に帰ってきた合図だ。……大丈夫、大丈夫。いやな妄想でいやな世界にひきずられちゃうなら、逆だってあるはず)


 これはある種の最終試験なのだと幸子は唱えた。


 幾度となく妄想してきたヒーローをこれまでになく精巧に、左目の泣きほくろの位置まで細かく、はっきりとした輪郭で描けるか。


 もうこれ以上はないと断言できるほどの彼を、なんとなくぼやぼやとした薔薇色の馬のようなものの上に、慎重に整えていく。


 ——死を悟った芸術家が最後の作品を手がけるような深刻さがあった。


 おそろしい世界に迷いこんでしまったらしいという問題など、いつしか幸子の意識からは捨て去られていた。


 鬼気迫る勢いで描きこまれる妄想は、唐突にぴたりと止まる。


(……わたしのばか! 無知!)


 なぜ教科書をちゃんと読んでいなかったのかと、頭を抱える。

 これまでのような少女漫画風ではなくリアルな人間として妄想していた幸子は、彼の身体を考えようとしたとき、自身が男性の肉体にまったくの無知であったことに気付かされた。


 かろうじて保健の教科書で目にしたはずの男性の裸体はおぼろげだ。服でそのあたりを誤魔化すことはできるが、はたしてそれは至高の妄想と言えるのか。


 幸子はあまりの悔しさにくちびるを噛む。


 中途半端な妄想を続けるべきかやめるべきか、悩む主人を助けるようにぽぽちゃんが鳴いた。


 はたと、夢から弾きだされた幸子は目をしばたかせる。


「あれ、ここ……」


 延々とあった住宅と桜の木はどこにもない。


 足もとにはやっぱり桜の花びらがつもっていたが、高さはすねのあたりまで下がっていた。


 道を挟むように、シャッターのおりた店々が建ち並んでいる。


「商店街?」


 見慣れないが見覚えはあった。学校帰りに通る道のとなりの通りだ。


 さきほどまで迷いこんでいた住宅街のように景色がずっと続くことはなく、すぐつきあたりには二階建てほどの古びた木造の建物が構えている。


 シャッターはおりていない。軒下には建物内からあふれだしたようにいくつもの本棚が出されていて、色褪せて黄ばんだ背表紙がとなりの本を押しつぶす勢いで肩を並べていた。


 軒の上に乗った看板はすっかり塗装が剥げていて、店の名前は読めない。


 大きなすりガラスのはめられた引き戸には『春夏冬』と達筆に描かれた木札が下がっていた。


「しゅんかとう……」


 以前見かけたときも、同じ呟きをしたことを思い出す。


 ここは商店街でも貴重な〝シャッターのおりない店〟であり、百希町唯一の古本屋だ。


 これまで訪ねたことのなかった幸子でも、存在は知っていた。


(開いてる……? もしかしたら人、いるかも)


 額を汗がつたう。

 胸が内側から殴られているようで、ぎゅっと服の胸もとをにぎりながら、幸子は閉じられた戸の向こうを遠目にうかがってみた。


 人の気配はさっぱり感じられなかったが、橙色のあかりがかすかに透けていた。


 見つめるうちにふしぎと勇気がわいてきて、少女の足はようやく踏みだされる。


「ぽぽちゃん、ちょっと待っててね」


 近くのポールにリードの先を繋いで、ぽぽちゃんの頭を撫でたあとで、幸子はいよいよ戸の前に立った。


 そっと手をかけて力をこめれば、すべるように戸は動いた。


 年季の入った外観からもっと頑なな抵抗をされると思っていた彼女は、ぎょっとして手をひっこめかけたものの、どうにかそのまま身体を通せるほどの隙間を作る。


「お、おじゃまします!」


 天井にはたった二粒の電球が橙のあかりを灯していた。


 古本のほんのり甘いにおいに、思わずほうとため息をつく。


 戸を閉めれば外のあかりはほとんど届かず、あれだけやかましかったカラスの鳴き声さえ聞こえなくなった。


 現実とも、今しがたまで迷っていた世界とも違う、まるでどこからも切り離されているようにひどく寂しくてどこよりも落ち着く場所だった。


 所狭しに並ぶ本棚は、電球を反射して琥珀色につやめく木の床から生える林のようだった。


 どこからかカタカタと扇風機の回る音がする。


 まだ春にも関わらず、ぬるい空気にはじっとりとした湿気がはらんでいた。


 戸を背にして立つ幸子のちょうど真正面に、大きなレジスターの置かれた机が一つあった。

 幸子にはそれがレジスターだとはわからなかったが、おそらくそこが店主の定位置であろうとは予測がついた。


 だが人影は見えない。


(だれもいない……?)


 本棚の密林をおそるおそる抜けながら、幸子はレジスターへと近づいていく。


「あの、すみません! だれか」


 机にはやはり誰の姿もなかったが、レジスターの奥に紫の色紙いろがみがあった。


(折り紙……これ、まだ折ってる途中?)


 中途半端なかたちのまま放置されていたそれを見つけて、幸子はどうにかうつむきかけていた気持ちを持ち直す。


 ここにはたしかに生きている人の気配が感じられた。


(ここにいないなら……)


 顔を上げた幸子の目に、ぴたりと閉じられた木の引き戸が映る。


 店は住居と兼用のようで、レジスターのうしろにそびえるその向こうに生活スペースがあるものと思われた。


「お、おじゃまします! おじゃましますよー!」


 いまは緊急事態、不法侵入じゃないと胸のうちで唱えながら、念入りに声を張り上げて戸に手をかける。

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