第3話 桜とUFO

 ひらいた玄関ドアがなにかを押しやった。


 にぎったドアノブをとおして、小さな生き物の質量が幸子の手首に伝わった。


 とっさに手を引こうとしたときには、隙間からカラスの無機質な目がのぞいていた。


 もうなにも映さないはずの瞳が一瞬だけ見上げたような気がして、幸子はひきつりそうになる喉の奥になんとか悲鳴をとどめた。昨晩、窓に激突してきたカラスだと直感した。


 街の空にありふれているはずのカラスの死骸をこのときはじめて目にしてしまったと気づくと、背中におぶさるいやな気配にちょうど一羽ぶんの重みが増したような気がした。


 それ以上カラスを地面に擦らせないようにと、幸子はわずかな隙間に身体をすべりこませるようにして家を出た。


 なるだけ足もとを見ないようにして鍵を閉めて、住宅街の屋根の連なりと空との境界線あたりに視線を浮かせながら玄関を離れる。


(これはもう、不幸とかそういう話じゃない気がする……)


 幸福の『幸』を名前にもらいながら、幸子は自身が人よりいくらか頻繁に不幸にみまわれやすいことを自覚していた。


 そうは言っても大怪我や大病はこれまで一度もしたことがなかったし、家族にも恵まれたと思っている。


 楽しみにしていたイベントの日に大雨が降ったり、おしゃれをすると犬や鳥のふんにぶつかりやすかったり、すこしばかりため息の数が多くなってしまう程度だと深刻には受けとめていなかった。


 他愛もないはずだった不幸の重みが、少しずつ増していると思いあたったのは先日。


 散歩中にすぐ鼻先を落下した植木鉢が足もとで粉々になったのを目にしたときだ。


 背中におぶさるいやな気配に気づいたのもそのときだった。


「……右手にミックスジュース、左手に白いスニーカー」


 あまり鬱々と考えていては、こんどはカラスではなく車がつっこんでくるかもしれないと、幸子は声高にてきとうな歌をくちずさみはじめた。


 大きな戸建て住宅が軒を連ねてはいるものの、このあたりはほとんど空き家で、広々とした道路には車も人もいない。


 外でも陽気に歌いだす姉に福乃はいつもいやそうな顔をするけれど、幸子も整えられた庭木のある家の前では声をひそめる配慮はしていた。


「桜の公園で待ってる〜」


 なだらかだった下り坂が急になりはじめるあたりに幸子の部屋ほどの小さな公園があって、その入り口に自動販売機がある。


 塗装のはげてロゴがわからなくなった鉄の箱のなかに、たった一列、片手で数えられるほどの種類のジュースが並べられている。


 いつの季節も品揃えに変化はなく、たとえあったとしても右端のミックスジュースしか見ていない幸子には関係のないことだった。


 ポシェットから財布をとりだすころカラスのことはすっかり忘れられていた。


 小銭を入れたあと、ボタンを押しても缶の落ちる音がしないくらいでは動じない。


 オムライスと一緒に水分補給をしたことを思い出して、まあいいかときびすを返す。


(久しぶりにこっちにおりるかも)


 学校も、ぽぽちゃんのお散歩ルートも坂をのぼっていく。町に一つのコンビニも坂の上で、駅もスーパーもそこからさらにバスでのぼった先にある。


(海には海しかないからなぁ)


 けれど福乃の話では、そこにUFOがやってきたらしい。


 昨夜の嵐に落とされたのかもしれない。

 幸子が宇宙人なら、好き好んでこんななにもない町に着陸しようなどとは思わない。

 きっと不幸な事故だったのだろう。


 青が近づくにつれて、潮の香りが濃くなる。


 道路はだんだんと狭まっていって、住宅のあいだをぬける強い海風が幸子の髪を肩口で遊ばせた。


 ふわり、パステルオレンジに大柄のチェック模様のワンピースがひるがえる。


 浜辺におりる階段のすぐ左手側に、白希の海を一望できる御神木の公園がある。

 ようやくそこまでたどり着いた幸子は、目の前に広がった光景に、思わず息をのんだ。


 巨木は腹のあたりで無惨に裂けていた。

 肌色の傷口をさらしながら、うしろの住宅の屋根をなかば潰すように枕にして身体を斜めにしている。

 衝撃的な光景ではあったけれど、海辺に鎮座する巨大な銀色の円盤の異様さには比べるべくもなかった。


 浜辺におりるための階段は、人だかりがあふれて立ち入れそうになかった。

 まるで祭りかなにかのようにひしめく彼らを公園から見おろして、幸子はこの町にこれほどの人がいたことに驚いていた。

 一軒家ほどある鉄のどら焼きに関しては、あまりに現実離れした光景すぎてCGを見ているような気分になる。


 学校が始まったらしばらくはこの話でもちきりになるだろうと思った。

 学校だけじゃない、きっと町じゅうがUFOの話題に埋めつくされる。


(あそこにいるのって、たぶん商店街の人たちだ)


 いつ見てもほとんどシャッターのおりた商店街のうち、実際のところいくつの店がいまも経営しているのかわからなかったが、何人か見知った顔を見つけた。


 幸子が学校帰りにコロッケを買う肉屋の店主が、UFOを指さしながら近くの人になにか指示を出している。


(飾られたりするのかな)


 社会の授業が苦手な幸子でも、この町が行き詰まっていることはなんとなく察していて、大人たちがどうにかしようとあれこれ考えているらしいことも知っていた。


 飾るなら、場所はどこになるのだろう。バス停あたりの広場かな。公園をふちどる腰丈のフェンスによりかかって円盤を見おろしながら、幸子はふわぁと大きなあくびをした。


 例のいやな気配が重たくて、このところすっきりとした目覚めができていない。

 いつでもぼんやり眠たくて、思考はとりとめのないものばかりになる。


(宇宙人、まだ中にいるのかな)


 また一つあくびついでに、呼びかけてみた。


「おーい、宇宙人さん」


 声を張り上げたわけでもないので、ほんとうに中にいたとしても聞こえたはずはなかった。


 けれど幸子はこのときUFOから名前を呼び返された気がした。

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