第2話 鉄のどら焼き

 はっきりと名前を呼ばれる声で幸子は目を覚ました。


 いもむしのように身体に巻きつけていたふとんは片足をひっかけたまま床に落っこちていた。


 真冬だった夜は陽がのぼるまでに春を一足とびにしたようで、生地のぶあついパジャマのなかは汗でびっしょり濡れていて、暑いやら冷たいやらわからない。


 起き上がるあいだに階段を上がる足音が近づいて、ドアが開けられる。


「幸子、いま何時だと思ってる?」


 あらわれたしかめ面は幸子に似た造形をしていたが、目もとにはしわと涼しげな聡明さがあった。


 彼女は小脇にかかえていた掃除機をドアストッパー代わりに置いて、ベッドからこぼれたふとん溜まりをたぐり寄せながらくるくる丸めてしまうと、おおきな雪玉を担ぐように持ち上げる。


「あさ?」

「一時よ。もうお昼すぎてる」


 掃除機を残して去ろうとする母親の背中に、寝ぼけまなこはようやく見ひらかれた。 


 片っぽだけ靴下の脱げた足があわててじゅうたんを蹴っとばす。


「ぽぽちゃんは!」

「下で拗ねてる」


 うながすように見おろされた視線の先、階段の一段目で伏せていたまっしろなポメラニアンが『ぽぽちゃん』の呼びかけに反応してちょうど顔を上げた。


 小さなしっぽがようすをうかがうようにゆらゆらと揺れる。


 幸子は階段をふさぐふとん玉の下をくぐって、おずおず近づこうとした。


 けれど伸ばした手が触れる前に、ぽぽちゃんは転がされた毛糸玉のすばやさで逃げだした。


「待って待って、ぽぽちゃんごめん!」


 追いかけて駆けこんだ部屋のなかはバターの焼かれる甘いにおいでみたされていた。


 ぽぽちゃんはまっすぐにキッチンへと突撃していったが、侵入禁止のフェンスに阻まれてきゅうんと鳴く。


「ごめんねぽぽちゃん、お散歩さぼってごめん」


 ようやく幸子の腕が抱き上げようとした矢先、キッチンから苦言が飛んだ。


「きゃんきゃんうるさい」

「ぽ、ぽぽちゃんは悪くないの!」

「お姉ちゃんがうるさいって言ってるの。お昼、オムライスでいい?」


 幸子よりも母親にそっくりな妹は、髪をいつも通り耳の下でおさげに結んで、恋人から拝借したという大きめのパーカーと空色のジーンズにエプロンを重ねていた。


 右手には輝く黄金をのせた皿、左手にはケチャップ。

 バランスを保ったまま、器用にフェンスをまたいでテーブルまで運んでいく。


 まだ髪をとかしてもいない幸子の腕から、するりとぽぽちゃんが抜け出た。


「わたしのぶんまで作っててくれたの?」

「今日は私の当番だからね」

「ぽぽちゃんのお散歩さぼっちゃったのに」

「そーだよ、最終日に」


 春休みのあいだは、姉妹で交互にぽぽちゃんの散歩とお昼ごはんの用意を担当する約束だった。「しっかりしてよねお姉ちゃん」とため息をつくことが妹の癖になってしまったことに責任を感じつつ、幸子の頬は現金にゆるむ。


「わたし、ふくちゃんのオムライス好き」

「オムライスしか作れないの」


 福乃ふくのは照れを語気に隠して、姉に顔を洗うよううながす。


 幼いころからなんでもすこしだけ福乃のほうが優っていたふたりだったが、料理に関してはその限りでなかった。


 春休みのあいだ、ようやくオムライスを習得した妹に対して、姉は冷蔵庫の残りものをどうアレンジするかという域にあった。


「お姉ちゃんのオムライスほどじゃないし」


 顔を洗いおえてテーブルに戻ってきた幸子の向かいで、福乃は口をとがらせる。


「そんなことないよ」

「はいはい。ねえ、それより昨夜ゆうべの嵐なんだけどさ」


 ひとさじ頬張ったまま上目遣いになる幸子は、脳裏に浮かんだ不吉な翼を追いやる。


「もしかして桜、散っちゃった?」

「ううん」


 一度横にふった首を、福乃はあいまいにかしげる。


「んー、咲いてはいるけど……ほら、海辺の公園に大きな桜の木があったじゃん。あれがぽっきり折れちゃったらしくて」

「えっ、あの御神木?」


 それそれ、と福乃はうなずいた。


 猫のひたいほどの公園にずんぐりと根をはる桜の巨木が、実際にはどれほどの歴史を持つものなのか彼女たちは知らない。


 ただ白希町の子供たちにとって『御神木』といえば、例の木にほかならなかった。


「もうくっつかないのかな。なくなっちゃうのやだね」

「どうだろう。かなりガツンとやられたらしくて」

「すごい風だったもんね」

「それがさ、風じゃなくてUFOかもしれないんだよね」


 幸子のスプーンから赤い米つぶがぽろぽろと落っこちた。


 まじまじ見つめた妹の顔は、冗談を言っているふうではない。


 夢みがちな姉に日ごろ呆れた態度をとる彼女からそんな言葉が飛び出してくるとは思わなかった。そもそもオカルトなんてばからしいと鼻で笑っていたことすらあったはずだ。


「いや、ほんとうにUFOかどうかしらないけど」


 居心地が悪そうに福乃は目をそらした。


「でも海辺にあったからさ。大きい、鉄のどら焼きみたいなやつ」

「大きい鉄のどら焼き……」


 言葉に連想されて幸子の頭に浮かびあがったのは、どら焼きを好物とする猫型ロボットのほうだった。

 海岸に横たわる真っ青な巨体を想像して、彼女の眉間はけわしくなる。


 その表情を疑われているととらえて、福乃は頬をふくらませた。


「お姉ちゃん今日ひまでしょう。見てきなよ、町じゅうすごい騒ぎになってるんだから」

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