無題、又は徒然草ならぬもの。
霊岩
短文を少々。
ケットシーの少年は暫くの間、手紙から目を離さなかった。一度は、返答の手紙を書こうと取り出した万年筆の尻軸を顎に当てて、文面を真剣に読み返すでもなく、返信の内容を考えるでもなく、唯、夢現の子供のような顔で、ぼうっと眺めていたのである。
何も、此れは手持ち無沙汰に、徒な時間を過ごしていたわけではない。矛盾するようだが、彼は真剣に気を抜かしていた。そしてまた、彼には時間がなく、同時に時間が必要であった。かのフィッツジェラルド氏は、彼の遺作『ラスト・タイクーン』を「行動が人格である」という言葉で締めくくったが、この時、此れはまさに、此の少年の為の言葉であった。
少年―ここで名前を述べておくならば、彼の其れは柊木 冽(ひいらぎ れつ)と言った―は、とある街の一邸宅で働いていた。言わば世話係が一番近い言葉であったが、この内容は今話したところで、大した意味を為すことはない。だから、今度話すことにしようと思う。ともかく、彼は、豪邸のサーヴァントであったのだ。
其の日、家主のフェルナン・コリーナ氏は、平生の通り、古びてキシキシ音のする、ウォルナット材の椅子に腰掛けて、大きな自室に佇んでいた。彼の部屋の、古ぼけた柱時計が、午後の三時の到来を知らせる直前に、冽はコリーナ氏の部屋を訪ねた。彼は氏に呼ばれていたのだ。
「おや、本当に、時間通りだね。いやはや、何ともお前らしい事よ。」
コリーナ氏がそう言うと、冽は深々と御辞儀をして返答の代わりとした。
「麗らかな午後を迎えることができて嬉しい限りで御座います、コリーナさん。さて、ご要件と言いますのは……」
彼は、氏の話の長いことを知っていて、早々と本題を切り出した。それを聞いて、氏は「やれやれ」という顔をしながら、表情を緩めた。そして、擦り切れて引っかかりのある机の引き出しをやっと開くと、仄暗い木造りの部屋の中では、目が痛くなってしまうほどの白い封筒を取り出した。
「君宛だよ。海外から。」
"海外から。"その言葉に、冽少年は一瞬ピクリとした。そして、ほんの僅かの同様の後、奪うように、それでいて礼儀正しく丁寧に、封筒を受け取った。宛名には、見覚えのある名前が記してあった。懐かしく、優しい、けれど目眩のするような美しい名前。
「花曇…。」
「故郷の恋人かい?随分とお淑やかな字であるね。」
「恋人では……。嘗ての、いえ、長い友人です。」
躊躇って、直ぐに言い換えた。確かに、連絡を取っていない中ではある。しかし彼の中では、その名前を過去にする気には、どうしてもなれなかったのだ。
「話は此れだけだよ。早く、読んでやるといい。」
氏は、珍しく、話をそこで、早くに切り上げた。おそらくは、少年の、変に緊迫した様子が伝わったのであろう。
「……失礼いたします。」
少年は、訪問のとき以上に深々と、そして、早く切り上げて貰った分の対価を払うように長く辞儀をした。氏はその様子を、柔らかな眼差しで見ていた。其れは、子猫を見る親猫のようであった、と言うのが、最も適切な例えであろう。
少年は部屋をあとにした。
そうまでして読んだ手紙の内容は、散々であった。親しい仲の挨拶でもなく、切なく思う恋文でもなく、詰まる所其れは、仕事の依頼であった。
18にして既に前職を退職し、彼は此処で新しい仕事についていた。其れは前職より余程に穏やかで、幸せに務めることの出来る仕事であったのだ。掃除をして、子の世話をして、ノイローゼに成る程の洗濯物を洗って、其れは彼にとっては何とも幸福な仕事であった。仲間と家主の文句を言いつつも、家主の深い愛情を知っていた。そんな生活に、彼は満足をしていたのだ。今更乱される気などない。そう心に決めていたつもりではあった。少なくとも、心の目に見える所では、今も深く、そう信じていた。
『The Great Sphere実行委員会、花曇』
子供が喜びそうな響きを持ったその文字列は、彼には少しの安らぎも与えなかった。其れは紛れもない事実である。にも関わらず、彼は再びその名を見たことに、喜びを感じてもいた。
(之が運命のいたずらでは無くて、何であろう。)
彼は心からそう思った。
手紙の内容は、嫌に簡単であった。其処には長々と、礼儀臭い文句が書き連ねてあったが、詰まる所要約をすれば、「仕事で近くに来ているから、会って話がしたい」と、それだけの事に違いはない。であるから、彼の書くべき返信は、イエスかノーで答えることのできる、非常に簡単なものであった筈だ。にも関わらず、彼が一つの文も書けなかったのは、言うまでもなく、途方もない葛藤の為である。
そして、苦労の末に、いくつかの文を完成させた。其れは酷く完結で、文句の一つも付いていなかった。
『■月■日、行けたら行く。』
無題、又は徒然草ならぬもの。 霊岩 @KYIV0523
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