第175話 欠陥品なりの抵抗
「――まただ、またあのやべえ風が来たぞ! みんな気をつけろ、ぶっ飛ばされないようにな!」
「特に女子供は気をつけろ、ちゃんと周りにしがみついとけ!」
ヴェルジネア家の屋敷から二度吹いた魔法の神風に、一度目である程度対処法を学んだ民衆が揃って声を上げる。本体と見える細長い大蛇のような風の乱流は彼らの頭上を駆けて、闇を割いて天を貫くように遠くへと消えていく。だが、その余波だけで人々の身体は浮き上がりかけていた。
それに対して、彼らは互いに肩を組んで一体となることによって耐える術を直感的に見出していた。
「……それにしたって、こんなに魔法がばんばん飛び交うなんて、中はどうなってるんだ?」
「アルセーナは無事なのか……? いや、きっと大丈夫だろうが……」
その暴風は間違いなく、前の満月にグレイセスが振るった炎の竜巻よりも遥かに次元の違うものであり、それを肌身に感じさせられた民衆は心胆を寒からしめられていた。
――果たして、この信じられないほどの暴力を振るう相手を前にして、アルセーナはこれまでのように何事もなくことを終えられるのだろうかと。
不安に苛まれながら、安心を得ようと屋上に吊るされたグレイセスに視線を移す者を少なからずいる中で、大多数はやはりアルセーナに期待と信頼を寄せるように暴風の発生源へと眼を凝らす。
そこでは、彼女もまた【
■■■
竜の名を冠するに相応しく、轟轟と唸り声を上げて吹き荒れる大嵐。
アルセーナは半ば身体を投げ出すように床を蹴ったことで、その暴風の圏外へと逃れることに成功していた。とはいえそれは本当に紙一重の差であり、彼女は後ろに流れる自分の髪の先端がちょっとだけ削られたのを感覚的に悟った。
辛くも魔法の範囲外へと脱した後は、その余波に巻き込まれないようにと手頃な位置にあった瓦礫の山の後ろに身体を縮める。彼女の腕の中には、先ほど庇った少女ドゥーズの姿もあった。
「少しの辛抱ですから、こらえてくださいな。私の胸元は少々窮屈かもしれませんが、許してくださいね。今貴女を外へ放り出すわけには行かないのです……ごめんなさいね」
幸いにもドゥーズが暴れる様子を見せないことに安堵しながら、アルセーナは防壁となった瓦礫の縁からほんの少しだけ顔を覗かせた。視線の先に見える渦巻く暴虐の風の内側には惜しくも範囲外に導くことが間に合わなかった女性たちが数人いたはずで、その安否が気になったからだ。
――しかし、彼女の心配は杞憂に終わった。
直撃を浴びたはずのセルウスの配下たちは、彼女が隠れたのとはまた別の瓦礫の後ろ側に集められていた。彼女らは気絶しているようで、横たわったまま置き上がろうとしない。その下手人の姿そのものは見えないが、オーレリーは彼女らの側から光り輝く魔力の糸がどこかへ引っ込んでいくのを見た。
「……ありがとうございます、ラスト君」
それが先ほど彼女を救ったのと同じ糸であることを察して、アルセーナはこれがラストの仕業であるとの確信を抱いた。
彼女と同じように、ラストもまたセルウスの従者たちが無暗に傷つくことを望んでいないのだ。それを知って、彼女は少し勇気づけられた気分になった。
道を別ったとはいえ、その心はまだ繋がっているのだと――それが、別けた側である自分に都合の良い解釈だと分かっていても、アルセーナは心強く思わずにはいられなかった。
「それでは、私も為すべきことを致しませんとね。この街を覆う闇はあくまでも私が贖う罪咎……その帳を晴らすのがこの身の輝きでなければ、せっかく作り上げた【
そう嘯いて、彼女は荒れ狂う風が収まったのを見計らってからセルウスとゼロの前に姿を現わした。
彼の従者である暗殺者たちの猛攻に晒された深緑のドレスは、所々が痛々しく破れている。それでも服の下に覗く肝心の五体には大きな傷が一つも見受けられないアルセーナには、さしものセルウスも苦い顔を浮かべざるを得なかった。
「嘘だろ、これでも無事だったのかよ? 呆れたしぶとさを見せてくれるな、アルセーナ。ゴキブリとてもう少し往生際が良いだろうよ。寛大な俺とて、いい加減面倒に思えてくるくらいだ」
「それは重畳ですわ。貴方のその余裕ぶった面構えを崩せるのなら、これほど嬉しいことはないのですから」
「ははっ、言ってくれるな。本当に鬱陶しくて、腹が立っちまうぜ。ったく、見てみろよ。お前のうざったい抵抗のおかげで、俺の大事な道具どもがほとんど使い物にならなくなっちまった。ひーふーみー……、何人かは今ので屋敷の外にでも飛んで行っちまったか? お前もだが、こいつらも俺の心を苛立たせてくれる。まったく、揃いも揃ってここまで酷い欠陥品だとは思ってなかったぜ」
階下を一瞥したセルウスが、そう酷評を吐き捨てる。
そこにはゼロの大魔法の影響を少なからず被った従者たちの姿があった。
暴風の軌道上からは外れていたものの、舞い上がった建物の破片などに身体をぶつけてしまったのか。ある者は立ち上がりながらもよろめいており、またある者は横に倒れたまま動こうとしない。
「おい、何をしてる! さっさとこっちへ上がって俺の盾になれ!」
その命令を受けても、彼女たちは無理をしてまで三階へ昇ろうとはしなかった。無表情を貫きながら、彼の従者部隊は二階に留まって主の危機に駆けつけようとする殊勝な気配など欠片も見せない。
もしかしたら、それは道具と呼ばれ、心を持たないと見放されていた彼女らなりの、忠誠心の無さを示さんとする密やかな抵抗なのかもしれない――そんなことをアルセーナはふと思った。
「誰も、貴方の盾になどなりたくはないようですわね?」
「ちっ! 黙ってろ……おっ、そう言えばそこにまだ無事なのがいたんだったな。御親切にお前が守ってくれたおかげだな、自分を傷つける相手を助けたお前の愚かしさには本当驚きだぜ。そらドゥーゼ、次の仕事をくれてやる! ――そこの女を殺せ!」
セルウスは代わりとばかりに、アルセーナの腕から離れたばかりの従者
それに黙々と従い、少女は太腿に備え付けていた鞘から己の武器を取り出した。されど、体格に見合ったその武器は短剣とも呼べないほどの大きさで、精々が果物ナイフといったところの代物だった。
その小さな剣を逆手に持って、少女は構えを取る――しかし、その脚は上半身に反して動く素振りを見せない。
「おい、何をしている! さっさとやれというのが聞こえないのか――それがお前の役目、お前の存在価値だろうが! なんのためにお前たちが生かされてるのか、それは俺の役に立つためだと教えただろう! 忘れたか
セルウスはとことん高圧的な態度を崩さず、再度命令を繰り返す。
それでも、少女は動かない――動けないでいるようだった。
アルセーナへと向けられていた、少女の表情のない顔。そこに浮かぶ二つの瞳から、突然ぽろぽろと大粒の涙がこぼれだす。
それに彼女が声を上げるより先に、ドゥーエはナイフを取り落としてしまった。
「……」
少女は無言のままに、それでも主に対する答えを示すように、両腕をだらんと力なく下に垂らした。
「……エリーナ、ちゃん……」
棒立ちとなったドゥーエに、アルセーナは思わず彼女の名を呼んでしまう。
主人があれほど否定した彼女の心は、確かにその中に残っている。その証拠を見て、彼女は浮かび上がってきた涙をこらえるのにぎゅっと目元に力を込めなければならなかった。
ただし、セルウスはとびきりの失望を顔に露わにしながら地面へと唾を吐いた。
「はっ、そうかよ。お前も欠陥品だったわけか、しかもろくに怪我をしてないにも関わらず動かねえとは良い度胸だ。ようし、それならお前ら皆纏めて後で再調教を施してやるぞ。俺に相応しい人形になれるように、特にお前にはとびきりきつい仕置きをくれてからだ。――だが、今はお前だアルセーナ。どれもこれも、お前のやらかしが原因みたいだからな。その責任を取れよ?」
「責任、ですか? 貴方自身ではなく、この私に責任を問おうと仰るのですか。彼女たちが主人に忠義を尽くそうとしないのは、他ならぬセルウス・ヴェルジネア本人以外に原因は存在し得ませんのに」
肩を竦めて、セルウスは腰に携えていた剣を抜く。
文学や馬術、魔法などだけでなく、剣術もまた貴族の――特に男子の身につけるべき嗜みであることは言うまでもない。
それなりに堂にいった中断の構えを取って、彼はアルセーナに切っ先をちらつかせる。
「違うな。お前がいなけりゃ、こいつらはいつまでも俺の従順な愛玩動物だった。それをぶち壊したのはお前だろうが。それに、この腹の中で煮えるような騒めきはお前が俺の前に屈して靴に接吻でもしない限りは収められないだろうよ。ったく、どいつもこいつも使えないなら、俺がやるしかないじゃないか。剣なんてのは学校を出て久しぶりだが、まあ女に負けるはずもないだろ。――ゼロ、お前はもう一度魔法の準備をしてろ」
こくりと頷いた少女が、三度目の大魔法を発動しようと口を開く。
――その先は叶わず、突然ゼロの膝からがくりと力が抜ける。
「まさか、魔力の枯渇っ!?」
「ちっ、お前もか」
頭を固い床に打ち付けそうになる少女に、セルウスはため息を吐き、アルセーナはその状態を推測して慌てて駆け寄ろうとする。
しかし、その小さな体を抱きとめたのは彼でも彼女でもなかった。
「おっと、大丈夫かな。安心して、僕は君の味方だよ。落ち着いて、息をゆっくりと吐いて……そう、そう。後はこれでも齧って休もうか。なにかって? 甘い甘い、ただのお菓子以外のなんでもないよ。だけど、君の魂を癒すとっておきの魔法さ」
ここにきてようやく姿を現わしたラストが、ゼロをその腕の中に抱きかかえながら慈しむようにその頭を優しく撫でた。
更には命の奪い合いの様相を見せていた戦場にて甘い匂いの漂う菓子を懐から取り出して少女の口元へ与える呑気な彼に、二人はすぐに反応を表に出すことが出来なかった。
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