第174話 拾い集めた過去を覗かせて


 常人をして狂気と詰られる在り様を、しかしセルウスは胸を張って誇示さえしてみせる。

 その茶色に輝く瞳には、酒精や怪しげな薬に犯された中毒の気配はない。

 彼は至って正気そのものなのだ。――ただし、そこには彼の二十年近くの人生をこれまで取り巻いてきた、大きなようで極小さな世界の中ではという前置きがつくが。

 そして、赤子を虐げ傀儡と化すことがセルウスらの常識なのであれば。

 それを罪だと訴えるアルセーナこそ、彼にとっての異端者であり哀れな世間知らずなのだ。


「さあ、お前たち。そこの、いずれお前たちと肩を並べる女にさっさと引導を渡してやれ。昨日の敵は今日の友、いずれ等しく我が目となり耳となり、腕となり足となるんだからな」

「――うたてんりゅう天竜いななきなれば……」


 自らの身は危険から遥か遠くに置いて、セルウスはゼロの詩に耳を傾けながら愉しそうに顎を撫でる。

 彼を無視して、アルセーナは目下の敵たる少女たちに言葉を投げかけた。

 三角跳びの要領で壁を蹴り、ドレスを纏っているとは思えない身軽な動きで一人の少女の顎を傘で打ち据える。だが、相手はその程度では脳震盪を起こすこともなく再び立ち上がってくる。

 アルセーナの知らないなにかしら――催眠か薬物か、恐らくはその両方が徹底的に施されているようで、彼女らは予想以上にしぶとかった。

 それでも、いくら表情が能面のようであろうと主よりかは言葉を聞き入れてくれるのではないか。

 一縷の望みをかけて、アルセーナは口を開く。


「退いていただけませんか、皆さま! あれ・・には忠誠を誓うほどの度量もないでしょう! それに、この恐ろしい詠唱が聞こえないのですか? あの男はきっと、好機と捉えれば貴女たちを巻き込むことも厭わない――分かっているでしょう!?」


 少女たちは、答えない。

 代わりとばかりに口を挟んだのはセルウスだが――。


「無駄だよ、無駄無駄。そいつらには、徹頭徹尾俺の言葉しか聞かないように調教を施してあるんだ。俺の言葉を聞けば甘い官能的な快楽に身悶えして、他人の言葉に耳を貸そうものなら鞭と毒の苦しみを思い出すようにな。お前がどれだけ叫ぼうと、奴らの心には一切響かないんだよ……声だけで動く人形があるとでも――」

「どうなのですか、私が貴女がたに問うているのです! 特にそこの……アンサンク11オンズ――いえ、リゼルさん、マインさん、シャルロッテさん!」


 耳を傾けるべき価値のない兄の言葉を放っておいて、アルセーナは他と比べて少しだけ共に重ねた時間の長い三人へと呼びかけた。彼女らの持つ、親から愛や祝福と一緒に与えられた本来の名前を以て。

 その記憶の奥底へと押し込められた懐かしき名前に、三人はびくりと身体を震わせた。

 ごく僅かに攻撃の手が遅くなり、そこに彼女一人分のか細い道筋が開ける。

 そこを狙い澄まして体を加速させ、アルセーナは再度問う。


「貴女がたの身にどれほどの苦痛が刻まれたとして、本当にかつての家族のことを忘れてしまったのですか!? 身に覚えのない借金のカタとして娘を、姉を、妹を連れていかれた皆様の家族は、一日一秒たりとも皆様のことを忘れてはおりません! たとえ何年経とうとも、皆様の帰りを心から信じておられるのですよ!?」


 それは、彼女の持つ本来の顔が懸命に民と関わっていたからこそ知り得た事実であった。

 いくらアヴァルが自身の悪事を覆い隠そうと、彼の手の届く範囲には限度がある。いくら暴力を使って民衆を表向き締め上げようとも、彼らの内面に残る傷跡までは抑えようがない。

 唾を吐かれ、生ごみを投げつけられることも往々にしてあった。それでもオーレリーは父によって癒えぬ傷を負わされた人々の家を丹念に訪問し続け、父の悪事の証言をこつこつと集めていた。

 その中で、セルウスが従える少女たちの幾人かが市民から奪われた娘であると知ったのである。

 それは家族を追放する決定的な証拠としては今ひとつ足りないものであったが、確かに今、一つの結実を見たのだった。


「覚えているのでしょう、安らかな安寧の日々を! あそこに嗤う独善者が身勝手に奪い去った、懐かしき心安らぐ毎日を! あの存在さえ消えてなくなれば、穏やかな平穏が戻るのです――私が、かけがえのないそれを皆様の手に戻すとお約束いたしますわっ!」


 少女たちの隙間なき連撃に生まれた隙を繋ぐように、アルセーナの身体が三次元的に疾駆する。

 折れた柱の断面に足をかけ、吹き飛ばされ損なったカーテンのはためいているのを先端を掴んで振り子のように反動を用いて上へと飛ぶ。その際に二人の少女の手を足場として飛び上がってきた相手の刃を傘で叩き落とし、彼女は再び三階へと回帰した。

 そこからセルウスのいる場所までは床が途切れているが、強化魔法のかかった彼女の身体は必ずしも地面と平行の足場を必要としない。

 助走をつけて走り出した彼女は勢いのままに、なんと、怨敵の立つ場所まで続いている壁面をその健康的な白脚で渡り始めた。


「――まさか、そんな所まで知っているとは恐れ入ったよアルセーナ。それで役に立たなくなるってのもな。そいつらは後で纏めて再教育してやる必要があるな」

「――がいせん凱旋ときいまここにきたれり……」


 その考えを実行に移させまいと近づくアルセーナに、セルウスは未だ余裕の態度を保つ。


「だが、それに何の意味がある? 小賢しい知恵も、圧倒的な力の前には平伏すのみなんだぜ。雑魚ばかりに固執して、俺のことを忘れてるんじゃあないのか? ――風よ、我が尊き命を拝し殉ぜよ」


 ようやく自らの武器を振るおうとし始めた彼だが、その前置きも含めて冗長な詠唱が終わるまでにアルセーナが彼の喉元を抑え込むほうが早いように思える。

 だからこそ、セルウスは自らの潜めていた手札の一つをここで切った。


「出番だ12ドゥーズ、――この意に叛きし逆賊を、その神妙不可視の刃で切り裂き散らせ」


 ゼロを抱えて後ろへ下がったセルウス、その背中から小さな姿の童女が姿を現わした。

 年の頃はゼロと同じだが、彼の血を引いているわけではない。

 アルセーナはその記憶から、少女がとある八百屋の夫婦から奪われた大切な一人娘であることを掘り起こした。


「っ……エリーナちゃん!」


 彼女の両親がオーレリーに涙ながらに訴えた言葉を思い出して、彼女の脚が僅かに遅くなる。

 それだけで、少女は主に与えられた役割を果たした。


「吹き荒ぶ大風の下、汝の秘謀は今ここに暴かれ、晒される。――【枯風乱嵐ヴェン・テンペスタース】。大事なガキと一緒に、しばらく眠ってるんだな」

「させるものですか――母なる風よ、【風花聖楯ヴェン・マリアイギス】!」


 アルセーナは詠唱を短縮した風の防御魔法をエリーナの背後に展開し、自身は少女をなるべく痛めつけないように素手で抑え込んだ。教育がさほど進んでいないのか、エリーナは抵抗もままならず彼女の手の中に収められた。

 それよりも、彼女は自身の張った楯が壊れないかどうかに気を払っていた。

 いくらだらしなく見えても、セルウスはオーレリーと同じ血を引く者だ。遺伝的な実力はほとんど拮抗しており、なにかと自分を卑下する癖のある彼女は自分の積んだ努力をあまり信じてはいなかった。

 幸いにして彼女の【風花聖楯ヴェン・マリアイギス】は花散ることなくセルウスの【枯風乱嵐ヴェン・テンペスタース】を耐えきった。

 だが、彼女は最悪なことに、セルウスの魔法を堪えようと反射的に脚を止めてしまっていた。

 それが、もう一つの完成に近づきつつあった魔法に猶予を与えてしまうことを、彼女は暴風の晴れた後に響くゼロの声によって思い出した。


「――たいへい太平かたしゅうぐ衆愚は、こうべれて、ひかえおろう……」


 ゼロの小さな身体の前に、その身長の五倍はあろう直径の巨大な魔法陣が敷かれている。

 既に九割がた形を成した魔法をここから止めるには、それこそ早打ちの魔法で以て彼女の意識を搔き乱す他ない。

 それが罪なき彼女の身体に傷を与えてしまうことを恐れたアルセーナは、先手を打つことよりも回避行動を取ることを選んだ。


「くっ……どうせならば!」

「――けよ、えよ……」

「うまく避けてくださいな、皆様……!」

「……すさべ――」


 嵐が奔る先はもちろん、アルセーナのいる場所である。

 それを見越して、彼女はなるべく後ろにセルウスの配下がいないような位置取りを選ぶ。

 あとは彼女たちが出来る限り死なないように祈りつつ、アルセーナは最後の回避機動を為すべく両脚に一際強く力を込めて――。


「――【枯風乱嵐・天竜凶奏ヴェン・テンペスタース・ドラグハウリア】」


 ゼロの従える暴風の竜が今一度、怪盗の前に巨大な顎を開く。

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